【知道中国 990】 一三・十一・初七
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の20)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
映画は見終わった。ホテルに戻り明朝出発の準備である。この日は雨でぬかるんだ赤土の上を散々に歩いたから、「赤土でよごれた靴をボーイが持って行った。やっても取らぬはずだが、ボーイには絶対にチップをやらぬことを申しわたされた。この変化にも私をおどろかせる。昔のボーイはチップをはずまなければ、なに一つ仕事をしなかったものである」と、火野は新中国の変化に驚いてみせた。
こういった話に尾ひれがつき、誇大に伝わって、新中国は道徳国家に大変身したなどというヨタ話が日本で信じられるようになったわけだが、冷静に考えれば、何ともバカバカしい話である。共産党政権下の水も洩らさぬように冷酷非情な相互監視社会である。そのうえ、皆がみんな同じように貧乏だった。そんな環境でチップを貰ったら、忽ちにして職場仲間に知れ渡ってしまう。人民元ならともかく、これが外貨だったらどうなる。両替しようにも両替する場所もチャンスもない。幹部ならまだしも、ヤミであったとしても一般人民には両替など不可能だったろう。ならば外貨なんぞをチップに貰っても無意味だ。それどころか外貨の隠匿が判ったら、おそらく社会主義に敵対する不埒者、アメリカ帝国主義やら国民党の特務、はては反革命犯罪者として葬られてしまうのがオチである。
つまり外国人客からチップなんぞ貰っても厄介なことが起こるだけ。有難迷惑このうえない。ならばチップは貰わないに越したことはない、ということになるのが人情というものだろう。こう考えれば、共産党によって道徳国家に大改造されたからではなく、貰ったら身の回りで厄介なことが起こる可能性が大。だから、チップは貰わない。要するに、チップにまつわる“道徳話”は大誤解だったと考えるのが常識ということになるはずだ。
4月27日午前9時48分、一行を乗せた列車は漢口駅を離れ、一路北京を目指す。
その車中でのこと、常久が昨夜の二次会につき全員に声を掛けなかったのはセクト主義だといってゴネだす。とはいえ、一行は余り取り合わない。
窓外は「どこまで行っても同じような水田がつづき、楊柳の並木がいたるところにある」。火野は「瞥見しただけでわかるわけもないが」と断わった後、「革命後、徹底した土地改革によって、洩れなく土地をあたえられた農民の生活が、昔とは格段にちがった安定を保っている様子は、疾走する車窓からでもどことなく看取された」と土地改革の成果としての農民の境遇の“大好転”を語り、「国営の集団農場になるまでには少なからぬ歳月を要するというのだった」とする。おそらく、招待者による説明の受け売りだろう。
ここで農民の集団化について、ごく簡単に振り返っておきたい。
土地革命によって地主から取り上げた土地を分配され、農民は念願の土地を手にし、個人営農体制の下で自作農となった。欣喜雀躍して毛沢東を崇め奉り共産党を支持したわけだが、糠喜びに過ぎなかった。早くも53年には統購統銷制度が導入され、農業の安定的成長と主要農産物の安定的供給を掲げて、集団営農組織結成の方向に動き出す。
火野らの中国旅行から3か月ほどが過ぎた55年7月、毛沢東は農業集団(合作社)化の積極推進を呼びかけた。やっと手にした土地だが、毛沢東サマのゴ命令なら逆らえない。農民は嫌々ながら“積極・自主”を装って土地を集団に提供することとなった。すると、である。この動きを毛沢東は「中国農村の社会主義化への高潮」と大歓迎した。つまり社会主義化へ農民の積極的意欲の表れと思い込んでしまったわけだ。そこで党内の一部にあった急進的集団化を危惧する考えを押し切り、合作化の速度を速めよと大号令を掛ける。
かくて58年には全国農民は大躍進政策の下で人民公社に組み込まれるが、その先には飢餓地獄が待ち構えていた。火野が目にしたのは悲劇の集団化目前の農村だったのだ。《QED》