【知道中国 991】 一三・十一・十
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の21)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
火野らを乗せた列車は京漢線を北京に向けて奔る。
「どの駅にも毛主席の肖像画があり、『抗美援朝・解放台湾』のポスターがあった。空はどんよりと曇っているが、雨はやんだ」。
50年6月に勃発した朝鮮戦争は、火野らの中国旅行の2年ほど前の53年7月に終わっている。その際の名残が「抗美援朝」のポスターだろう。一方の「解放台湾」だが、建国後初の元旦に当たる1950年1月1日の「人民日報」が社説で「台湾、海南島の解放は今年の任務である」と高らかに宣言して以来の悲願だが、54年9月には中国側は台湾側の金門島を砲撃し、55年1月になると台湾側最前線の一江山島を急襲し占拠している。2月8日から11日にかけ、台湾側はアメリカ海軍との共同作戦によって最前線の防衛拠点を放棄せざるをえなかった。火野らの旅行は、それからほんの2ヶ月ほどの後。「解放台湾」のポスターで人々を煽り立てようとしていたのだ。
車中でのこと。「昨日きめた閲歴書を出すこととなった」。どうやら当時は、中国旅行の際には赤裸々に自らの過去を告白しなければならなかった、ということか。「みんなの閲歴報告書が集まったのを見ると、壮観といってよかった」。「大部分の人の履歴書はかがやかしい階級闘争の記録である。弾圧とたたかった左翼運動、逮捕、投獄、なかには血で彩られているものもあった。・・・革命家をもって任じている人ばかりであった。また、肩書がやたらに多いのも一偉観である」そうな。
ここで火野は、「国鉄労組の新田さん」から例の常久の履歴書にはウソがあることを知らされる。「僕も戦争中は支那の鉄道にいたのですが、常久さんは僕より上役でした。そのころ面識はありませんでしたけど、常久さんのことはよくおぼえています。なにしろ軍のお気に入りの鉄道技師でいばっていましたから」と、新田が話す。漢口で見学した機関車工場も、戦時中は常久の管轄だったというのだ。「この閲歴書には、戦争中のことがみんな落ちています」と新田が続ける。
常久の閲歴書を目にして火野は、「もとよりたった一枚の閲歴書に人間の全貌が描きつくせるものではない。しかし、それは逆な意味では、全貌を示す資料となっているともいえる。私はあらためて文章というものの恐ろしさを考えないでは居られなかった」と綴る。
招待した中国側は恐らく、いや恐らくではなく確実に、常久の閲歴書のウソを見抜き、戦争中の常久の一切を掴んでいたはずだ。だが、そんなことは一切明かさない。知っていながら知らぬ素振りをして常久を泳がせる。一方の常久は「軍のお気に入りの鉄道技師」だった自らの戦争中を知られたくない。隠し通したい。であればこそ、余計に招待者側の意に沿った形で“革命的”に振る舞った。火野を繰り返し反動呼ばわりするも、それだ。
ここにも、敗戦を機に「鬼畜米英」の皇国戦士から「米国製民主主義万歳」の民主派闘士へと立ち位置をスルリと変えながら恬として恥じなかった、戦後日本の民主主義・社会主義礼賛者に共通する拗けた心根がみられるように思える。常久もまた戦後民主主義者の典型だろうが、そういう人物に狙いを定め中国側は招待したに違いない。中国旅行中に十二分に洗脳し、本人が自覚しないままに立派な宣伝工作要員に仕立て上げ、日本に送り返す。帰国後には各地で中国寄りの宣撫工作に専心邁進するはず。“芸術的”な招待外交だ。
食堂車に行くためにいくつかの車輛を進む。途中に母子専用車輛があり、母子共に快適な旅を続けている。駅構内でも同じようだった。「新中国では母親と子供とが大切にされるようになった」と語る通訳は、続けて「このため、ひとの赤ん坊を借りて来る女もあるが」と。判った時、どんな罪になるのかと問うと、すかさず「反革命の罪です」。《QED》