【知道中国 207回】                      〇九・一・仲六

――《北京のポチ》にならないために・・・

『中国との格闘』(P・クラドック 筑摩書房 1997年)

 

1923年生まれの著者はケンブリッジ大学卒業後に英国外務省に入省。66年から69年というから文革がもっとも激しく展開されていた時期に、北京の英国代理大使館政務担当参事官、代理大使などを務めている。この間、文革最過激派は世界各国の中国大使館を拠点に「文革外交」と呼ばれた外交慣例無視の過激・デタラメ・身勝手・理不尽なゲバルトを展開するが、その象徴的出来事である紅衛兵による北京における英国大使館焼き討ち事件に遭遇し、その事後処理にも当たった。

以後、駐東ドイツ大使、ジュネーブ代表部勤務を経て、78年に大使として北京入り。84年まで、改革・開放初期の中国を現地で観察する一方、鄧小平にハッパを掛けられる中国側外交当局を相手に香港返還交渉を進めた。84年から92年は首相外交顧問に加え、英国諜報部門統括責任者。サッチャー、メージャー両首相の特使として秘密裡に訪中。天安門事件後の英中関係や香港問題処理を第一線で担当。

――こう人名事典風に綴ってみれば、英国の対中外交における著者の立ち位置が判ろうというもの。それだけに、この本には文革から改革・開放へと激変する時代の流れの中で変転極まりない北京の外交に対し、英国が国益と国家としての矜持を守りながら、如何に対応したかが綴られている。高圧的な中国外交当局に対しては、著者もまたシタタカな手練手管を駆使して渡り合う。だが、そんな彼の振る舞いの根底に中国に対する深い洞察が秘められていることを、忘れてはならない。彼は“敵”を見切っていたのだ。たとえば、

「革命の理念からいえば、中国人の持つ本質や性格は、根本から改造されるはずだったのに、彼らは相変わらずもとのままの中国人であり続け、ついに生まれ変わることはなかった。

「中国という国にこれほどの大きな災難(=文革)をもたらした、彼(=毛沢東)の虚栄心と利己主義とは、いったい何だったのかと疑問を思わずにはいられない。

「人民をグループに組織して管理し、互いに監視しあい、互いの罪を告発させようとしたのは、法家の考え方だった。

「振り返ってみれば、自ら買って出て創りあげた、これら妄想の数々(=文革期に訪中した学者たちが振りまいた“バラ色の中国像”)は、嘲笑の的でしかない。

「共産党の組織は、無信仰者たちのために建てられた教会と同様に、いまでは単に社会のヒエラルキーを上るための手段として存在するに過ぎなかった。」

そして著者は後輩である将来の英国の中国専門家に対し、「西洋にとっては今後も遠い異境の地にとどまりつづけるであろう社会、急速な経済成長を続けながら相変わらず荒削りで独断的な政治政策を行っている国、そして将来的にはもはや共産主義とはいえなくなり、ただ民族主義だけを鼓吹する国に変わるに違いないこの国を、いまから十分に研究しておかなければならない」と告げることを忘れてはいない。この備えこそが肝要だろう。

翻って我が国をみるに、官民を問わず確固とした歴史観を持ち全体情況を把握して対中交渉に当たる人材はいるのか。タメにする倫理道徳を政治に持ち込むことを止め、歴史をリアルに捉える眼力を養わない限り、《北京のポチ》から脱却する道はなさそうだ。《QED》