【知道中国 992】                        一三・十一・仲三

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の22)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

自分が快適な列車旅行をしたいから他人の赤ん坊を借りて来る。これを生活の知恵といっていいものかどうかは判然としないが、いずれにせよ「反革命罪」と断罪しなければならないほどに横行していたということだろう。

「赤ん坊をごまかした母親の反革命罪」に些か戸惑う火野を見て、「コロコロと笑いだし」た通訳は、「人間を乗せてはならない人力車が人間を乗せたり」、売り買いの際に「掛け値をいったり、受け取りを出さなかったりするのも、反革命」と説明する。

それを聞いた火野は、「さすれば禁止されている売春をおこなう夜の街のパンパンも反革命分子というわけであろう。そこまで反革命の罪が広汎であるとすれば、インチキ母親が反革命ということもどうやら私には理解できた。飲んだくれのパチンコ狂いも反革命という次第である」と、なにやら建国直後における反革命罪の内実に納得したようだ。

「インチキ母親」も反革命、人力車に人を乗せるも反革命、産児制限論者も反革命、大躍進を批判するも反革命、毛沢東に逆らうも反革命、四人組に楯突くも反革命、毛沢東から後継者に指名された華国鋒が「英明」ではないことを公言するも反革命、鄧小平に異を唱えるも反革命、幹部の不正を告発するも反革命・・・なにやら建国以来、反革命罪は権力者の意のままに無限に拡張解釈されてきたようだ。まさに共産党政権が全面否定する封建時代から言い慣わされてきた「只許州官放火、不許老百姓点灯」そのままである。

州官を現代風にいいかえるなら権力者であり幹部、老百姓は人民。幹部なら放火も勝手のし放題。だが、明かりを灯すために火を点けることすら人民には許されない、ということ。まこと権力者と人民との関係は、数千年来不変であり、これから中国大陸で驚天動地の政変劇が起ころうとも、彼ら漢族が「世界に冠たる数千年の歴史、万邦無比の文明」などと自画自賛している限り、権力者と人民との関係は永遠に続くに違いない。

さて例の常久だが、彼は「終戦直後、徳田球一以下が釈放されたときには共産党に入党したが、旗色がわるくなると社会党に転党、(社会党が右派と左派に)分裂後は右派に長くいたが、(一行が)インドへ出発する直前、左派に変わったという」。なんとも驚くばかりに徹底して政治的無節操だ。だが、かくもリッパとしかいいようのない政治的変節漢であり風見鶏であるからこそ、中国側は日本宣撫工作要員として狙いを定めたのだろう。

「汽車の暗闇の中の疾走。黄河の鉄橋は気づかぬうちにすぎてしまった」。

日にちは、いつしか4月28日に変わっていた。

「いつまで行っても窓外から消えないものは、稲と楊柳と驢馬。北京が近づくと、聞き覚えのある地名駅名が頻繁になって来た。聞き覚えがあるというのは、戦争中の作戦や占領のときに喧伝されたためで、『日寇鬼子兵』の一人である私の耳も痛い。あちこちの壁に『仁丹』『老篤眼薬』の広告の文字がいくつも残っている」。

「仁丹」はともかくロート目薬を「老篤眼薬」と訳したのは秀逸としかいいようはない。老篤の2文字は「ラオドゥー」と発音し、老には非常にという意味があるから、中国人は老篤眼薬とは極めて篤実な効能を持った目薬と受け取ったに違いない。

火野らが訪れた昭和30(1955)年は8月15日の敗戦から10年目ということになる。10年を経て「あちこちの壁に『仁丹』『老篤眼薬』の広告の文字がいくつも残っている」旧戦場の風景は、旅行中は飽くまでも元「『日寇鬼子兵』の一人」だとして振る舞おうと努める火野の心に、やはり複雑な思いを抱かせたようだ。「私の耳も痛い」・・・火野の痛憤は、何に向けられたのか。

列車は進む。やがて「古ぼけた城壁が切れると、右手に盧溝橋が見えて来た」。《QED》