【知道中国 993】                        一三・十一・仲五

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の23)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

火野が「運命的な日華事変がこの地点から勃発したのであった」と記している盧溝橋である。一行の全員が窓から覗いていた。「人それぞれの感慨があるのであろうが、知る由もない」。あの常久にも「感慨」があったはずだ。

ところで一行が乗った列車の食堂車だが、一行のために特に広東で仕立てられ北京までやってきたという。当時の中国は物資が豊富というわけではない。いや火野の綴った沿線の風景からも貧しい様子が伺える。

敗戦から10年しか経っていない時点である。「仁丹」「老篤眼薬」の広告も街の壁に残っている。戦争の記憶は、一行の脳裏にも旧戦場のそこここにも、いまだ生々しく刻まれている。にもかかわらず、“超”の字を付けざるをえないほどの破格の大歓待だ。一行が大感激しない訳がないだろう。まさに招待者側から言うなら、一行は飛んで火に入る夏の虫。いや鴨ネギか。おそらく帰国後は日本全国各地で巡回帰国報告会を開き、“旧悪”を徹底して懺悔し「日中友好万々歳」を訴えること、ほぼ間違いなし。中国側は対日工作を仕掛け、一行の側は招待旅行を満喫し時に感傷に耽るのみ。勝負は最初からついていたわけだ。

盧溝橋を前に、火野は火野なりの「感慨」を吐露する。

「昭和十二年七月七日、この地点で大戦の火蓋を切ったのは、牟田口将軍の部隊であった。その後、戦火はとどまるところを知らぬ勢いでひろがり、昭和十六年、太平洋戦争へと発展」したのだが、「十九年の夏」というから、ちょうど雲南省西部辺境の龍陵、拉孟、騰越などの各地で、米軍供与の圧倒的な火力で装備を固めた蔣介石隷下の雲南遠征軍(当時、日本軍は「米式重慶軍」と呼んだ)を前に、日本軍兵士が絶望的な戦闘を強いられていた頃である。火野は「最後の決戦といわれたインパール作戦に従軍して」いた。

「インパール作戦の惨憺たる敗北は強引をきわめた牟田口中将の無謀戦略によるものだが」、戦場である「チン丘陵のジャングル内で会ったとき」、「将軍は昂然として、しかし悲痛な面持ちで」、「自分は盧溝橋からこの戦争をまきおこした責任がある。したがって、この戦争に結末をつける責任もある。インパールを攻略してその責任をはたすのだ」と、火野に向かって「言明した」という。続けて火野は、「この将軍の責任がなにを解決したのであろうか。久しぶりで私は窓外に盧溝橋を見たが、瞬間に頭に浮かんだのは牟田口将軍の青ざめた顔であった。無論、彼一人が戦争の責任者であるわけではない。真の責任者は別にある」と綴る。ならば、火野が考える「真の責任者」は誰だ。火野は口を閉ざす。

「時間によって奇怪な変貌をとげる歴史の土地。それは人間のたわいなさを翻弄し嘲笑しているとしか私には思われなかった。もう一度、盧溝橋のうえに立ってみたいというのも歪められた感傷であろうか。橋は昔のままらしいが、その意味は逆転しているのであった」。

「『あの橋が日本を滅ぼしたんだね。恐ろしい橋だ』と、竹下さんがいった」。するとまたしても常久が横合いから口を出す。「だけど、そのために、新中国が生まれたんだから、めでたい橋といえるね」と。なにが「めでたい橋」ものか。この常久という変節漢こそ、“戦後民主主義社会”を、さも正義づらして無自覚・無節操・無自省・無反省・無責任のままにノホホンと、しかもノー天気に泳ぎまくった人物の典型だろう。

暫くして「盧溝橋は消え去り、まもなく頂上にギザギザのあるなつかしい北京の城壁が見えて来た。人家が次第に稠密になる」。「やがて、列車は城壁の切れ目から城内に入った。カランカランと機関車の頭につけた鉦が鳴りだした」。

「午後四時二十一分、急行列車は北京駅フォームにすべりこんだ」のである。《QED》