【知道中国 994】 一三・十一・仲八
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の24)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「北京駅にも毛主席の巨大な肖像画がかかげられてあった」。
北京は三度目の火野だったが、「今度の旅の中心課題は北京にあ」り、「(戦中の)前二度のときのようなのんきな気持ちの旅ではなかった」。それというのも、「私の反省や、覚悟や、思想問題や、私の気持ちを息苦しくさせている緊張感や、常久さんからの宣告――私が人間として、作家として、日本人としておしまいになるかならぬかという重大問題も、北京に来てはじめて解答が得られるというもの」だからである。
そこで「私はいつか北京をおそれる気持ちにさえなっていたが、もはやその恐ろしい北京の懐に入ったのである。くそ度胸をきめるしか仕方がなかった」と綴ることになるが、なぜに火野はそこまでの“悲壮な決意”を持つのか。言い方を代えれば、自分を責め苛むのか。「なにしろ軍のお気に入りの鉄道技師でいばっていました」が、そんなことはおくびにも出さず、招待者側の意向に沿うような言動を繰り返す常久のように、アッケラカンとは振る舞えなかったのか。戦争体験が悲惨苛烈であったがゆえに火野は「北京をおそれ」た。一方の常久は、装っていたかどうかは判らないが新中国を賛美し日本における“革命”を無邪気なまでに求め、招待者側に諂いをみせる。戦時中を中国で送った火野と常久――2人の日本人の振る舞いの違いは、あるいは誠実さと自省心の有無に因るともいえそうだ。
保守派と革新派とを問わず、戦後日本で「日中友好万々歳」を叫び続けた“友好人士”の多くは常久と同類だったように思う。“罪滅ぼし”やら“贖罪”とやらを深刻ぶって口にしていたが、実態は“ゴ陽気な健忘症患者”でしかなかった。火野のように、いつまでも綿々とクヨクヨと“支那体験”を引きずることなどしない。過去は過去で今は今。だが、そこに友好利権、井戸掘り利権、経済協力利権など様々な利権が絡んでいったわけだから、始末が悪い。いや悪すぎた。その始末の悪さを中国側から陰に陽に衝かれ続けたのが、戦後を一貫して現在に繋がる日中関係になる。そして、おそらく今後も。
ここで、北京における火野に戻る。
用意されたハイヤーで「城壁の門をくぐって城内に入る」。「城内」といっても日本風の城内ではない。城壁の内側、つまり市街に入ったということだ。「見覚えのある交民巷。昔このあたり一帯は外国権益の密集地で、各国の公使館がすらりとならんでいた。諸外国の軍隊もいた」。だがいまや「そういう外国勢力はすべて一掃されたわけであるから、まるで変わってしまっているにちがいない」。「日本公使館は中蘇友好協会に、アメリカ公使館は中国共産党北京市委員会に、オランダ公使館は東ドイツ大使館に、ベルギー公使館はビルマ大使館に、イタリー公使館は中国人民対外文化協会に、それぞれ変わっているという話だった」。西側諸国の在外公館が消え去ったなかで、「イギリスは早くから中共を承認したので」例外だった。イギリスだけが大使館を擁していた。
そこで火野は「一種の困惑に似た戸まどいを感じないではいられなかった」。それというのも、「中国のどこを歩いても徹底した反米運動がおこなわれているのに、反英の声がまったく聞かれない」からだ。「『解放台湾』は国を上げてのスローガンらしいが、『解放香港』の声はその片鱗も見られない。政治や外交の複雑さ奇怪さは私などにわかるはずはないとしても」である。
一行に用意された宿舎は「交民巷の一角に新築された堂々たる近代的ホテル」の新僑飯店で、招待外交の桧舞台といったところ。であればこそ、「正面玄関のまうえに、巨大な字で、『美国的侵略武装力量必須従台湾撤出去!(アメリカの侵略的武装勢力は台湾から出て失せろ!)』のスローガンがかかげられてある」のだ。まさに至れり尽くせりである。《QED》