【知道中国 995】    一三・十一・二十

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の25)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
 
 火野の部屋は「バスつきで清潔、当分の仮の住居としてはまず申し分かなった」。そこで窓ガラスに一匹の蠅が止まっているのに気づく。それは死骸だった。「たたき殺されて何日になるのか、何ヵ月になるのか、かなり乾ききっているから、何年か前の蠅かもしれない。・・・あれほど名物であった蠅の姿を、どこへいってもほとんど見かけなかったが、そういうことにも革命の恐ろしさがあらわれているわけであろう。瞠目に値するといわなければならなかった」。

 “蠅と革命の弁証法”とでもいうべきバカ話は、毛沢東革命を礼賛し新中国を鑚仰していた親中・媚中勢力が大手を振って政界・財界・学界・言論界を闊歩する当初から、耳にタコができるほどに聞かされてきた。火野はホテルの窓ガラスに付いたままの一匹の蠅の死骸から、「革命の恐ろしさ」を感じ取り、「瞠目に値する」とまで言い切る。彼もまた、バカ話に毒されていたのだろうか。

 だが、一匹の蠅すら許さないまでに徹底して革命的であろうとするなら、なぜ「堂々たる近代的ホテル」の新僑飯店は、蠅の死骸を取り除いてはおかなかったのか。しかも「かなり乾ききっているから、何年か前の蠅かも知れない」のだ。ということは、生きた蠅には革命的に立ち向かうものの、死骸になった蠅には用はないということだろう。なんとも辻褄の合わない話のようにも思える。因みにいうなら、火野らの中国旅行から3年が過ぎた1958年、中国政府は蠅・蚊・鼠・雀の「四害」を徹底駆除するための国民運動(「消除四害」)を本格展開したことは、すでに述べたところだ。

 「いいお部屋ですね」とドアをノックして入ってきたのは、2年半前から北京に亡命していた前進座の中村翫右衛門だった。柳田謙十郎の時もそうだったが、この時期の日本からの招待客、それも著名な文化人や知識人の接遇は、どうやら亀田東伍と中村翫右衛門の2人が専ら仰せ付かっていたようだ。

 やがて夕食のために翫右衛門と連れだって「ひろくきれいな大食堂」に。「豪華料理にビールと葡萄酒、私たちは乾杯した」。街を案内するという翫右衛門に連れられホテルを出て「ひっそりした民交巷を抜けていった」。「まだ九時すぎである。こんな時刻にもう店をしめるのだろうかといぶかしく思った」そうだが、これが革命というものだろう。首都の北京だからといって、共産党政権が完全制圧していなかったはずだ。国民党の特務やら不満分子の策動がみられたに違いない。ならば、戒厳状態に在ったとしても不思議ではない。

 「昔の北京なら宵の口だ、アカシヤの並木が夜風にそよいでいる」。しばらく歩くと「昔の建物を二度にわたって建て増し」し、「左方にむかって約三倍ちかい大きなホテルになっている」北京飯店の前に。「『あそこが私の部屋です』/そういって、翫右衛門さんは昔の北京飯店の三階の一室を指さした」。戦前に北京飯店に半月ほど止宿したことを思い出す。 

 当時の支配人は楢橋渡。ならば戦後、自民党衆議院議員で運輸大臣などを歴任した彼か。
「ホテルの大きいホールで、大東亜共栄圏建設や、米英撃滅の講演会をしたこともある」火野は、当時を思い出す。「友人たちと飲んだくれて気焔をあげたこともあるし」、「女郎屋からやってきた怪しげな女たちと戯れたこともある」。「昔はどこの街でもホテルはパンパンの巣であったから、この北京飯店でもボーイが女をとりもち泊まらせていた」。「朝になると方々の部屋から、美しい旗袍姿の女が出てゆくのを毎朝見た」。花柳病を移され病院に駆け込んだ日本人旅行者もいたそうだ。

 回想から現実に引き戻って、「しかし、そんなちっぽけな復讐ではなく、いま巨大な形で日本と日本人全体が復讐されているといってもよい」と続ける。「そんなちっぽけな復讐」がなにを指しているのか不明だが、火野は北京飯店を「その象徴のように」見上げる。《QED》