【知道中国 996】   一三・十一・念二

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の26)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「恐ろしい北京の懐に入った」から、火野は「いま巨大な形で日本と日本人全体が復讐されているといってもよい」と呟くのだろうか。この時、火野の脳裏に旧戦場における様々な体験が鮮明に浮かび上がってきたようにも思える。いま、この火野の発言の是非を問う心算はない。ただ、火野の態度は、常久などとは較ぶべくもなく真剣であり、女々しく、だが誠実だ。過去と現在とを我が事として捉えようと努めていたはずだ。

 火野は、往時から北京の代表的な繁華街で知られた王府井を歩く。

 「繁華街なのだが、店はもうみんなしめきっていて人通りも少ない」。「夜早く寝るようになったのは解放後のことらしい。新中国からは夜の生活というものがなくなった模様である。昔はこの辺は深夜まであかあかとしていて、野鶏もしきりに出没したものだ。そういえば、たしかにこのあたりにあったと記憶している料理屋やキャバレーも見当たらない。これは広東でも漢口でもそうだったが、大きな料理屋、キャバレー、ダンス・ホールなどはすっかりなくなっている」。“労働者の天国”らしく大衆食堂は開いているが、「客はあまりはいっていなかった」。因みに「野鶏」とは街娼、夜鷹のことだ。

 いわば北京からは、戦前に火野が体験したような面白さが消えてしまった。それが革命というものだろう。だが、共産党幹部だけはそうではなかった。たとえば1955年から22年間に渡って毛沢東の主治医を務めた李志綏の”THE PRIVATE LIFE OF CHAIRMAN MAO”(邦訳は『毛沢東の私生活(上下)』文春文庫 1996年)には、毛沢東を筆頭とする革命幹部の贅沢極まりない秘密の私生活が仔細に綴られているが、こんな記述が見える。

 「革命後、社交ダンスは退廃、ブルジョワ的だとして禁止され、ダンス・ホールはすべて閉鎖されたのだった。しかし中南海の城壁内、主席邸のちょうど北西にあたる巨大な『春蓮斎』で、毛沢東は週一回、ダンス・パーティーを開いていた」。「一九五五年のメーデーには、毛沢東も興奮についうかれてしまい」、「その夜、花火大会から帰ってくると、主席はダンスで一夜をすごそうと計画」した。「だだっ広いダンス会場に入っていった。たちどころに主席は十数人の、党中央警衛団所属の文化工作隊から派遣されたよく気がつく若い美女の群れにどっとかこまれ、じゃれついたりダンスをせがまれたりした」。「主席はかわるがわる若い女の子たちを相手におどった」。「一曲がおわるとパートナーの娘とすわり、おしゃべりをした数分後にはもう別の娘と入れかわっていた」。演奏は「楊尚昆の党中央弁公庁につとめる下級幹部によって編成されたアマチュア・バンド」が務めた。

 ところで数年後、李志綏はダンス・パーティーの「真の目的を諒解するようになる」。「党中央警衛団所属の文化工作隊は公式に説明されているように、団長の汪東興が警衛団(八三四一部隊)の慰問、娯楽用に創設したのではなく、じつは毛主席を慰めるのが狙いだった。文化工作隊には一団の若い女性、つまり容貌、タレント性、政治的信頼性を基準に選ばれた娘たちがいた。歳月を経るにしたがい、こうしたダンス・パーティー、そしてパーティーに参加した女性の役割は、私にしてから思わず目をおおいたくなるほど露骨なものになっていった」。故金成日将軍ドノは毛沢東を真似たのか。独裁者共通の道楽なのか。

 ところで、李志綏が中南海の豪邸に出頭せよと命じられ初めて毛沢東にあったのは1955年のメーデー前日。つまり火野らが北京に到着した3日後のこと。火野らも参加したはずの1955年のメーデーの大祝宴の夜空を彩った花火大会では、「花火だけに五十万元が浪費されたと聞かされた」李志綏によれば、「当時、労働者の平均月収が三十元」だったそうだ。

 「夜の生活というものがなくなった模様」の王府井から、毛沢東ら党幹部がダンスに興じる中南海までは然程の距離ではない。火野が苦悩した夜、果たして毛沢東は・・・。《QED》