【知道中国 997】     一三・十一・念四

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の27)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「強い風が吹いて来て砂塵をまきあげる」暗く寂しい夜の北京を戦場での体験を引きずりながら、火野は翫右衛門の案内でホテルへの道を引き返す。同じ頃、火野らが歩く少し先に位置する中南海の豪邸で最高度に厳重な警護に守られながら、毛沢東は主治医の李志綏をして「思わず目をおおいたくなるほど露骨な」時を過ごしていたのかもしれない。

 火野にとっては「恐ろしい北京」を、権力の絶頂を極めた毛沢東は自らの意のままに弄ぶことのできる“愉悦の街”に仕立て上げようとしていた。スターリンのモスクワ、毛沢東の北京、金一家の平壌・・・恐らく革命とは、そういうことなのだろう。

 「もういいというのについて来てくれた」翫右衛門は、歌舞伎界の因習に反発し左傾化し前進座を結成。戦後は座員と共に日本共産党に入党。昭和27(1952)年、公演先の北海道赤平で小学校職員と揉めた事件(一般に「赤平事件」)で傷害・器物派損容疑で逮捕状がでたことを機に中国に亡命した。「日本を脱出してから二年半、自分の抱く思想の母国に来て、気楽そうに生活しているものの、やはり翫右衛門さんはさびしいのであろう。よろこんで私たちを迎えてくれる翫右衛門の態度のなかにもどことなくそのさびしさがにじみでているように思われた」。翫右衛門もまた、一時の政治的熱狂のままに行動し、時代と革命とに翻弄された1人ではなかったか。翫右衛の立ち居振る舞いに寂寥感が漂う。

 明けて4月29日、平和委員会事務局の唐明処がやってきて「ニコニコ顔で挨拶した」。「どうぞ自分の家にいるようなつもりで、なんでも自由に申し出て下さい。できるだけ、許される範囲の御希望に添い、お世話申しあげたいと存じます。見物したいところ、話を聞きたいこと、調べたいこと、会いたい人、なんでも遠慮なく」と、例によって例のごとく甘言を弄する。だが、だからといって最初から招待者側から「許される範囲」は限定されているのだから、「なんでも自由に申し出」たところで無意味であることに違いはないが、招待された日本人は招待者側の“寛大な対応”に感激してしまう。

 そこで頃合を見計らって招待者側は猫なで声で、「そして意見を聞かせてください。われわれの新中国はまだ発足したばかり、欠点がたくさんあります。美点を誉めていただくのも結構ですが、欠点を指摘していただくことをいっそう歓迎いたします。そして、折角おいで下さったのですから、ゆっくりと新中国を見て行って下さることを希望します」と。

 だが、相手のいうことを真に受けて、「毛沢東の個人崇拝は最悪だ」「広州で多くの淫売婦を見かけましたが・・・」などと真っ正直に口を開こうものなら、“反中策動者”“敵のスパイ”といった烙印を押され、即刻国外退去処分となっただろう。

 それが判っているから、誰もが中国旅行中はもちろんのこと帰国後も中国にとって不都合は口にしないばかりか、毛沢東を礼賛し、新中国を誉めて讃えた。かくて日本人全般は中国を知らないままに過ぎ、その先に屈辱的な「子々孫々までの日中友好」の大合唱が待ち構えていたことになる。

 「ゆっくりと新中国を見て行って下さることを希望します」と“熱烈歓迎”ぶりをみせるだけあって、「先方では、五月十日まで北京、十一日から、重工業地帯である東北地方(昔の満州)、天津、南京、上海を視察、五月末か六月はじめ帰国というプランが」、既に用意されていた。案の定だ。そこで一行の中の「政治家連中は、早速、毛沢東主席、周恩来首相、劉少奇、朱徳、などの名を書きこんでいる」。火野は火野で「私は、ちょっと考えた後」、「思想や政治をはなれた文学者としての共感に立つ或るなつかしさと、中国の古典や伝説がどういう形で解放後の文学のなかでとりあつかわれているか、うけつがれているかを直接作家たちの口から聞いてみたいと思」い、3人の文学者の名前を挙げてみた。《QED》