【知道中国 998】     一三・十一・念六

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の28)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 郭沫若、老舎、丁玲の3人の文学者の名前を挙げた火野だったが、「内心では先方の都合がわるくて会えないほうがよいような気持ちだった」。彼らに会うことに「躊躇や気おくれや恐れを感じたのは、やはり、私が『日本鬼子兵』の一人であり、『麦と兵隊』以下の戦争作品の筆者であり、常久さんの言葉ではないが、戦犯であって、中国人の敵と目される人物の一人であるという、ひそかな自覚が抜けなかったからである」。飽くまでも火野は「ひそかな自覚」、いわば中国の戦場における自らの過去にこだわり続ける。その点が、「なにしろ軍のお気に入りの鉄道技師でいばっていた」はずの過去を綺麗サッパリと忘れ去ったかのように振る舞う常久とは、余りにも対照的だ。

 その後の日中関係――より有体にいうなら中国からの対日工作――の歴史を振り返ってみると、中国側の主たる標的は火野のような心情を持ち続けた日本人にこそあれ、中国に尾っぽを振る常久の同類たちではなかったようにも思える。

 殊に田中訪中前後からの日中関係の推移を見れば、中国流の“子々孫々までの日中友好”の井戸とは、中国にとっては汲めども尽きぬ円借款が湧き出す井戸だったということだろうが、日本にとっては膨大な円借款を呑み込む底なし沼でしかなかった。そんな井戸をセッセと掘り進めたのは誰なのか。これを戦後日本外交の“躓きの石“として検証し、責任の所在を明確化することは、所謂「位負け外交」を克服するために必要な第一歩だろう。

 ところで「ひそかな自覚」を抱いたままの火野は、階下にあるホテルの売店で斎白石の画集を買っている。「白石は気骨のある人物で、日本軍占領中、将軍や高官連が絵をかかせようとしたが、頑として応じなかった」。そこで「解放後、貧乏している斎白石に同情して、毛沢東が、白石の絵はなかなかいいじゃないかとかなんとか褒めたのが、白石流行の原因だと誰かに聞いたことがある」。そんな白石の絵を火野は、「面白いけれども、プロレタリア的よりも、ブルジョワ的であるよう」だと看做す。毛沢東の一言で全てが決定されてしまう中国社会に対する、火野のささやかな抵抗といってもよさそうだ。

 「午後三時、市内見物のため、ホテルを出発」する。乗ったのは「チェコスロバキア製の大型バス」だったというが、当時の中国の工業力では大型バスは自前で製造できなかったとも考えられる。となると「自力更生」は口先だけだったのか。戦前は「支那でなければ見られない面白い場所であった」東安市場の前を過ぎる。「入り口のまうえに、巨大な毛沢東肖像画、この東安市場は庶民の百貨店」と綴った火野だが、戦前に2回訪れている。

 「火野さんがなつかしそうな眼つきで、東安市場を見とるな。きっと、昔、骨董なんか、掘りだし物を見つけたつもりで、ニセモノをつかまされたことがあるんだろう?」との常久の言葉で、「バスの中に笑い声がおこった」。すると副団長が、「まったくあの頃の支那人というのはデタラメだったからな」と、戦前の東安市場で騙された経験を語り、「それでも、東安市場をひやかすのは面白かったな。もっとも支那的な、・・・・・おっと、支那というと、またおこられるが・・・・・」。

 バスは建設中の北京の街を進む。求めても地図は手に入らない。案内役の説明は曖昧で要領をえない。「常久さんは、あんまり新設築物がたくさんあるもんだから、工作員もおぼえきれないんだと笑っていたが」、どうもそうではないらしい。一行の一人の「曾根さんは、いや、そうじゃない、説明がないのは秘密なんだ、(案内役の)呉君の持っている地図のところどころに赤いマークがしてある、それだけは説明をとばしているよといった」。

 火野らが訪れた1955年は建国から6年、朝鮮戦争終結からは2年が過ぎていた。竹のカーテンの内側で、秘密のベールに包まれながら北京の街づくりが進められていた。《QED》