【知道中国 1000】    一三・十一・三〇

 ――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の番外)

 「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 火野は昭和32年に「新怪談集」(『東京』1957年12月9日)を著し、2年前の中国旅行を回想しているが、そこには共に中国を旅した左翼進歩派のデタラメ極まりなく厚顔にして無恥で言語道断な行状――今風に軟らかく表現するなら“極めてトホホ”――が綴られている。おそらく常久も、そんな仲間の1人だったに違いない。

 「私たち一行の中には、左翼の人がかなりいた」。彼らは「赤一辺倒であ」り、「中共のあらゆることを礼賛し、新中国をあたかも天国のように賞揚していた」のである。
 だが肝心の「赤一辺倒」も、中国を離れるや、なにやら怪しくなってきた。「四十日ほどの視察旅行を終えて、香港に出たとき、左翼人諸氏の大部分がガラリと変化した。解放されたようにホッとした顔つきになり、買い物したり、ごちそうを食べたり、酒を飲んだり、インバイを買ったりして、ノビノビと手足をのばしたのである」。なんと、そういうことか。

 「左翼人諸氏の大部分」は「赤一辺倒」の衣を脱ぎ捨て「ノビノビと手足をのばし」、俗にいう“命の洗濯”を愉しんだわけだ。香港での彼らの振る舞いを、「左翼人諸氏」ではあるが所詮は男という動物に過ぎないと笑って済ますこともできなくはないが、帰国後の言動を知れば知るほど、今からでも遅くはないから徹底糾弾したくもなる。なんと香港で「インバイを買ったりして、ノビノビと手足をのばした」「左翼人諸氏の大部分が」、「日本へ帰ってくると、・・・今度は、堂々と、・・・新中国を礼賛した」のだ。香港の「インバイ」は北京が仕掛けたハニートラップではないと、いったい誰に証明できるのか。

 因みに火野が記している一行のメンバーを挙げると、「戸上君(天理教布教師)」「道谷団長(経済学博士、農学博士)」「深田女史(児童文学者)」「私を戦犯呼ばわりした常久さん(労働運動家)」「清水さん(日本矯風会会長で、有名な菓子屋の奥さん)」「大木さん(詩人)」「長谷部さん(参議院議員、社会党左派)」「佐倉さん(専修大学経済学教授)」「鶴岡さん(部落解放委員会)」「竹下さん(戸畑商工会議所会頭)」「村井さん(地質学者、北大教授)」「革命が好きでないらしい篠原さん(自由党員で、婦人科医師)」「松原、岩淵(国鉄労組)」。この他にも参加していたはずの「左翼人諸氏」のうちの何人が、果たして「香港でインバイを買ったりして、ノビノビと手足をのばした」挙句に帰国後、「今度は、堂々と、・・・新中国を礼賛した」のか。開いた口が塞がらない。いや、怒りを覚える。

 ここで興味深い記述を紹介しておきたい。火野訪中2年後の1957年秋――中国全土を巻き込んで反右派闘争が展開された年であり、悲惨極まりない結末に終わった大躍進政策開始1年前――山本健吉、井上靖、十返肇、堀田善衛、多田裕計、本多秋五らと共に第2回訪中日本文学代表団の一員に加わった中野重治の「中国の旅」(『世界の旅 8 中国・東南アジア』中央公論 昭和37年)の一節である。

 中野は火野の「新怪談集」を引用しながら、「こんなことも私たち一行には全くなかった」と胸を張る。 中野の記す「こんなこと」が、火野の「解放されたようにホッとした顔つきになり、買い物したり、ごちそうを食べたり、酒を飲んだり、インバイを買ったりして、ノビノビと手足をのばした」ことを指すことは、容易に想像できる。やはり火野が記したような「左翼人諸氏」の香港での振る舞いが、中野ら、つまりは「左翼人諸氏」の間では公然の秘密だったと考えても、強ち間違いではなさそうだ。愉しんだのは復路だけ、いや往路も、か。いずれにせよ招待者側には筒抜けだったはず。帰国後に「堂々と、・・・新中国を礼賛」した折、香港での密やかな愉しみが脳裏に浮かぶことはなかっただろうか。

 火野は「或る漠然とした不安のために」と記し旅行5年後の昭和35年に自ら命を絶つが、「左翼人諸氏」は操られるままに日中友好運動を叫び、日本を貶め続けたのである。《QED》