【知道中国 1002】 一三・十二・初五
――「自由な学徒」は死んでも治らない曲学阿世だった
「忘れ得ぬ中国の人々」(南原繁 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
さすがに吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵倒されただけのことはある。確かに南原繁(明治22=1889年~昭和49=1974年)は異常が過ぎた。日本を代表する政治学者で東大名誉教授、さらには東京帝大法学部長当時の敗戦直前に我妻栄、田中耕太郎、高木八尺らと終戦工作に努め、敗戦の年の12月に帝大総長に就任したとしても、である。
昭和30(1955)年6月6日、南原は茅誠司を団長とする日本学術視察団の一員として、「ソ連でイワノヴォ地区の戦犯邦人収容所を訪問したために一行より遅れて北京に着」いた。9日午後10時、国務院総理公邸で「日本側から老友大内兵衛君と私」は周恩来と面会することになる。さぞや中国側の応接は鄭重を極めたのであろう。南原は「中国ではどこに往っても、客を迎えるのに中国固有の礼節があって、そのことは国の政治が変わっても、依然と変わりがない」と大感激の態だが、それが接待外交のカラクリというものだ。相手の自尊心を擽り、徹底して洗脳し、操り人形に改造してしまおうという魂胆なのだから。
「自由な学徒としての所見を率直に述べたかった」「私と大内君とが交々質問するのに対して(周)総理は一々丁寧に答え」た。かくて南原は「親しく話をしていて何よりも感ずることは、これは真実の人の言葉だということである」と、先ずは手放しの盲信ぶりだ。
「十二時が打ったが話がつきず、われわれの明日の日程のこともあり、零時半近く、ついに暇を乞うこと」になった。すると、「総理はじめ中国側の人々は玄関まで鄭重に見送られた」と、またまた大感激。そこで「一行の総理で内外の政務多端のなかを、われわれ日本の学徒のために、夜半にわたって幾時間も語りつづけた総理の博い知性と識見もさることながら、その人間としての誠実さに感心し」た挙句に、「このような政治家をもつ国民を幸福と思った」というのだから、もはや何をかいわんや、である。
かくて南原は無知蒙昧ぶりを全開させるのだが、妄言の類を些か紹介しておきたい。
■「こんど中国に来てつくづく感ずることは、日本と中国とは『同文同種』の国であるということである。新聞を見ても大意はわかるし、街を歩いていて看板は皆読み得る」
■「たとえイデオロギーが異なるに至っても、(日本人と中国人は外貌だけでなく)その底に変わることのない何か共通の信条と親近性」がある。
■「相携えて何よりもアジアの自由と平和を確立することでなければならない」
■(毛沢東の知的幇間たる郭沫若を評して)「人間として豊かで幅の広い、日本の善さも欠点も知っている真の理解者・同情者を、わが国に迎えることができたならば、どんなに国家の幸福であろうか」
■(中国側の扱いについて)「一点の非の打ちどころもないほどの企画と歓待。それは、立場をかえて考えれば、われわれ日本では到底企て及ばぬほどのものであった。その中枢に立つ人には、周到な思慮と、それに基づく計画性と実行力はもちろん、何よりも心の誠が必要であり、単なる外交辞令で仕とげ得るものではない」
旅の終着駅となった深圳で、ここまで送ってきた招待者側の関係者の「ひとりびとりと手を握って最後の別れを告げ」。もちろん“任務”を完了した彼らは、北京に取って返す。一方の南原は東京に戻るのだが、「香港から東京への飛行機の上でも、また日本に着いてからも、遠く北へ帰って往ったわれわれの親愛なる中国の友人たちのことを思うのであった」そうな。
この稚拙極まりない感想を書いたのが曲がりなりにも当時の日本の代表的知識人だと考えると、絶望的気分に陥ってしまう。それにしても対日工作に対する中国側の「一点の非の打ちどころもないほどの企画と歓待」に、日本側は無防備が過ぎる・・・昔も今も。《QED》