【知道中国 1003】 一三・十二・初七
――「『あんまり無理しなさんなよ』とでも呟きたいところだが・・・」(里見の1)
「隣邦の今昔」(里見弴 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「満鉄からの招聘の話が来た」ので志賀直哉や佐藤春夫とうち揃い、里見弴(明治21=1888年~昭和58=1983年)は「満支一見」の旅に出た。昭和4(1929)年11月初めのこと。「いかになんでも不愉快になって了う」というのが、里見にとっての中国と中国人に対する印象だったように思える。それから27年後の昭和31年、再び中国へ。この27年の間に、戦争と敗戦と国共内戦とがあり、49年には共産党政権による中華人民共和故国という新しい中国が誕生する。日中両国は共に驚天動地の変動を経験していた。
中国に出かけたわけは他でもない。「数年来、中国が頻りに外国人を招待、誘致しだした」からとのこと。里見は「なかんずくわが国へのそれが最も頻繁なのではなかろうか」と綴るが、たしかに中国側の日本への招待外交は昭和30(55)年前後に活発化していた。日本からは多くの団体が訪中し、帰国後には「毛沢東の指導の下で道義国家として生まれ変わった新しい中国の素晴らしさ」を口を極めて宣伝に努めると共に、日中友好運動を繰り広げている。中には日本革命近しとまで叫んだ勢力すらあったほどだ。
55年、日本では保守合同によって自民党が結党され、左右両派が再統一することで社会党が誕生し、戦後政治の代名詞でもあった55年体制が成立した。一方の中国では、朝鮮戦争も終わり、毛沢東の独裁体制がほぼ確立した頃だ。「なかんずくわが国へのそれが最も頻繁なのではなかろうか」との里見の疑問はもっともだが、はたして中国側に日本の保守陣営へ揺さぶりという狙いがあったのか。はたまた革命の好機到来という判断があったのか。
中国側の意図はどうあれ、当時の訪中団のリストを見る限り日本の政界・財界・文化界の要人(もっとも、どうでもいいような人物も見受けられるが)の多くに狙いを定めているといえる。だが、そうするためには、中国側に日本社会に通暁した人物が、日本側にはその人物と緊密に連絡を取って日本での工作を展開した人物(おそらく日本人)が存在していたに違いない。いったい、それは誰なのか。改めて、当時の日本における中国側工作の実態、日本における工作機関や日本側工作員を検証してみる必要がありそうだ。
ところで里見は中国側の「旺盛なる意図を、賢らに揣摩臆測することは私の性に合わないから、いとも単純に、たぶん日進月歩の隆々たる国運を見せたいのだろう、と先方の子供ッぽさをこちらでも無邪気に受けとって置くのが、よしんば後年そうでなかったことがはっきりして来るにしても、別だん恥じるに足らぬ上品な態度だろう」と、なにやら韜晦気味に受け流している。
里見は続ける。「よくよく行ってみたければ自腹を切って行く。・・・まだ一度も行ったことのない欧米諸国ならまだしも、さっぱり魅力を感じない『中華人民共和国』へ、名は『国賓』でも、実状は『国用族』で招ばれることを嬉しがろう筈はあるまい」と。
ここでいう「国用族」を、里見は「社用族」と対比して使っているが、どうやら国家の資産、つまり人民の膏血を絞った税金で飲み食い遊ぶ輩のことを指すようだ。かくて「旅費、滞在費、一切はむこうもちの由、「外賓」・・・・・と何かの文書に誌されていたが、その一人頭にどれほどかかるものか、生優しい額とは思われないのに、政府が、言うまでもなく人民刻苦精励の余に成る税金を以って賄うというのは、共産国家としてはちと似つかわしからぬ浪費、贅沢のようにも思われた」と綴ることになる。中国側の対応に対する里見の皮肉めいた感慨は、たとえば「私たちはムヤミに優遇されている」などと手放しで有頂天になってハシャイで見せた柳田謙十郎の対極にあるといっていいだろう。
里見は、さらに続けた。「もし私が彼の国の人民だったら、『つまらぬまねをしてくれるなよ』と肚で呟くことだろう」と。柳田、火野、南原とは違った里見の旅がはじまった。《QED》