【知道中国 1343回】                     一五・十二・三一

――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡84)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

帰国まで残すところ10数日。病み上がりの体で轎に乗り、あるいは伴の者に支えられながら香港の街を歩き、別れの挨拶に出向いた。

 

たとえば4月6日にはシンガポールに旅立つ黒田清隆の許を表敬する。別れ際に「顧問(黒田)、若干の金を贈(くださ)れて曰く、聊かの藥餌の用に充てん、と。余、深く厚意を感ず」。イギリスが東洋経営の拠点として営々と建設に励む殖民地・香港で病に臥す岡を気遣い、これからイギリスが東洋に持つもう一つの植民地たるシンガポールに旅立とうという黒田清隆が見舞金を渡す。その時の両者の心境に思いを馳せる時、明治という時代の時代精神の一側面を垣間見せられたような気がする。

 

残り少ない香港の日々を惜しむかのように、岡は香港観察を続ける。

 

完備された監獄、整然と手入れされた植民地政庁の建物、競馬場、庭園と見紛うような西洋人墓地、英国駐留軍施設、花崗岩細工工場、完備された港湾施設、ヴィクトリア港を埋め尽す船舶など、どこにもイギリス植民地経営のノーハウが込められている。その一方で、「小さきこと蝸舎の若く、密なること蜂房の若」き家で生活する「中民」を、蚕棚に暮らす蚕、穴に蹲る蝦蟇に喩え、「復た人類の勝(た)える所に非ず」と記すことを忘れない。

 

28日、北村なる人物の「中土に貨幣無く、大いに國體を失する論」に耳を傾け綴った。

 

――「中土」は最も古くから国を立て、「明賢(けんじん)」を世に出している。だが古来、誰ひとりとして貨幣を鋳造し貿易の便を図った者はいない。それというのも「中人」はカネ儲けに必死で、ともかくも目先の利益に目敏いからだ。儲けのためなら糸一本、牛の毛一本も疎かにしない。だから貨幣を鋳造しようものなら、直ちに贋造しニセガネが氾濫してしまう。法律で取り締まっても、禁ずることなどできはしない。誰もがニセガネを疑い、いちいち割ってホンモノかどうかを調べなければ使わないことになる。だからホンモノの銀塊を持ち歩いて、切り取って計ってから使うのも、贋造を疑うからだ。

 

この点について「米人維良氏」は、国土が広大で人口も多い「中土」において貨幣がないのに商人が困らないのは、政府にニセ札濫造を禁止する権限がないからであり、「純正貨幣」を作って人民から「信」を得るだけの「徳義」が政府にないからである、と説く。蓋し至言だ。(3月28日)――

 

人々は政府に「信」を置かず、政府には人々が納得して従うだけの「徳義」がない。経済規模が天文学的に拡大しても、紙幣の最高単位は相変わらず毛沢東の上半身が印刷されたシケた単位の「100元」でしかなく、不便・不合理極まりない。1000元札、5000元札があっても不思議ではないのだが、そうしたらそうしたで、あっという間に市場には1000元、5000元のニセ札が出回ってしまう。やはり人々は紙幣を発行する北京政府に「信」を置かず、共産党政権には人々が納得して従うだけの「徳義」はない。

 

こう考えれば確かに「維良(ウイリアム?)氏」の主張は正しい。だが、それは物事の半分しか示していない。じつは、彼の国では草民もまた互いに「信」を置かず、互いに納得し合えるような「徳義」を持ち合わせていないのではなかろうか。であればこそ疑心暗鬼が渦巻き、かくして「信」が置け、とにもかくにも「徳義」を感ずることが出来るのは家族のみということになる。かくて家族主義は永遠に仏滅、いや不滅となるわけだ。

 

翌日は「意(おもう)に色(かおいろ)、稍や佳」。往診してくれたイギリス人医師も「大いに悦び、以て憂いに足る無し」と言い、今後は毎日往診しなくてもよかろう、と。これで帰国の船旅も何とか耐えられる。やや心が落ち着いたのだろう。岡は旅行中の見聞を記したメモを取り出し、読み直し、改めて日記に「中土、士を取るの方を記」した。《QED》