【知道中国 1342回】 一五・十二・念九
――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
病状好転の数日を過ごした後、19日には「夜來盗汗淋漓。大覺疲勞」と綴る。体調は再び悪化した。そんな中でも、日中関係への関心を綴る。
――新聞が伝えるところでは、李鴻章が清朝帝室を支える醇親王と日本事情に詳しい「巴亞克氏」を天津に招き、朝鮮問題解決に向け全権大使に対し両国は共に撤兵し、「韓土」が自ら憲兵を置いて外国人を守り、日本人殺害犯を罰するなどの数件を訓令したとのことだが、これらの措置は「中日情理」に適っているので、「兩國の和」を害することはないだろう。(3月19日)――
――ロシアとイギリスが朝鮮東南200里の貴弼島を奪い、ここを東洋艦隊の本拠地にすべく虎視眈々と狙っていると、新聞が報じている。「東洋諸國は氣候温和にして土性は肥沃。而るに武備を忽かにして卑陋(こころせまい)」。まったく虎の皮を纏った羊のようなもので空威張りの世間知らずだ。「中日の門戸」である安南と朝鮮が破られた以上、その累が「堂奥(にっちゅうりょうこく)」に及ばないわけがないだろう。噫。(3月20日)――
朝鮮問題はなによりも「韓土」の王朝政権の優柔不断な振る舞いが原因であり、であればこそ問題解決の第一義的責任は「韓土」にある。日清両国が直接対決する愚は避け、それより「中日の門戸」である安南と朝鮮がフランス、ロシア、イギリスに破られていることに鋭意備えるべきだ。これが岡の考えだろう。だが、その後の日清戦争への道筋を振り返るに、岡の説く「中日情理」が一致することはなかった。
それにしても朝鮮半島を挟んだ日中双方の利害得失が一致することは岡の時代も、それ以後現在に至るまでも、いや恐らく今後もありえないはずだ。隣人であれ隣国であれ、厄介極まりない存在に如何に対応すべきか。頭を悩まし備えなければならないことは、古今東西・未来永劫に変わらないことだろう。「友好」の2文字は・・・有効ではアリマセン。
21日は「連夜盗汗。氣力頓減」、22日は「心神不快。至夜盗汗」、23日は「全身疲勞。不欲飲食」と体調不良を訴える記述が続く。暗い顔をしながらイギリス人主治医は「このところの気候激変が病気を再発させた。病気というものは再発した場合、薬では治癒し難い」。「瞿然(おどろきおそれ)」る岡に向って下した診断は「日東風氣(にほんのきこう)は、人體に適す。宜しく稍や復するを待ち直航東歸(きこく)し湯藥(りょうよう)に從事すべし」。長旅を切り上げる時期か。かくて岡は帰国を家族や上海の友人に知らせる。
22日、香港滞在中の黒田清隆が書記官2人を伴って広東に向った。するとさっそく中国人の友人がやって来て、「あれほどの政府高官が理由なく外遊をするわけはないだろう」と黒田来訪の目的を問い質す。そこで岡は率直に、
――黒田公は病気がちであり、「中土」に遊んで気分転換を図ろうというのだ。あなたは政府高官の外遊を疑われるが、欧米の高官や名士は続々と我が国を訪れている。イギリスやプロシャの王子も訪日をされているし、貴国の大臣もまた春秋の休暇を利用して日本に遊び、異国の風情を楽しんでいるではないか。(3月22日)――
ここまでいうと友人は口を噤んでしまった。岡は友人の疑問を軽く躱したものの、「伊藤西郷兩大臣、使命を銜(ほう)じ北京に在り。而して(黒田)顧問二三の僚佐と此の游を擧ぐ。宜しく其れ中人の疑訝を速やかにする也」と記すことを忘れなかった。
やはり明治政府の柱ともいえる伊藤、西郷、黒田の3重臣が、しかも微妙な時期に同時に中国に滞在するのである。なにか魂胆がある。やはり岡の友人が「疑訝」を抱いたとしても不思議ではない。おそらく彼の疑問は、両国関係の推移に関心を持つ「中人」の多くが共通して抱いたに違いない。日清戦争の回帰不能点まで・・・残すところ僅か。《QED》