【知道中国 1341回】 一五・十二・念六
――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡82)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
纏足の老婆を実際に目にしたのは、これまた香港時代。香港島の裏町だった。古本屋からの帰りだったように記憶しているが、前を上品な身なりの婆さんがよちよち歩いている。足元を見るとやけに小さい。こんなところで纏足そのものに出会えるとはと、胸の高鳴りを覚えたものだ。表現が大袈裟すぎるだろうが。婆さんの後ろを歩いて行くと、細い路地に折れ、その先の古びた店に入った。纏足専門の靴屋である。店内まで入る勇気は持ち合わせていなかったが、通りに面したガラス・ケースの中には紛れもなくシャレで小奇麗な刺繍が施された纏足用の小さな靴が陳列されていた。
あれから大分月日が過ぎた。香港に行く際に暇を見つけては記憶を辿って香港島の裏町を歩くが、纏足用の靴屋などサッパリ見かけない。おそらく年齢からして、香港の纏足世代は既に鬼籍に入ったに違いない。ということは、この地上から纏足などと言う「おかしかりき」「頑迷な陋習」は消え去ったと思いきや、なんと中国国内には残っているらしい。それというのも5,6年前、確か雲南省の山村だったと記憶するが、その村の住人、といっても老婆たちだが、彼女らの纏足姿の写真集を手にしたことがあるからだ。
老婆らの多くは年齢から判断して建国前後の生まれと見たが、かりにそうだとするなら、毛沢東の絶対権力の下で社会主義建設が進められていた(と大いに喧伝されていた)時代にあっても、「おかしかりき」「頑迷な陋習」は温存されていたことになる。イイカゲンと驚嘆すべきか。テキトウに過ぎると呆れ返るべきか。牢固として伝統を守ろうとする見上げた根性と困惑すべきか。いずれにせよ「莫明其妙(なにがなんだかサッパリわかりません)」。かくて中国という2文字を因数分解するなら莫明其妙となる、わけです!?
18日は「中俗無謂者甚多」で書き出されている。
――「中俗」には「無謂者(むいみなもの)」が甚だ多い。名前についていうなら、生まれた時に両親がつけるのが「幼名」。塾に入ると師長(せんせい)が名づけるのが「書名」。科挙試験の第一関門である郷試に受かって後は友人の間では「試名」を呼び合う。「庠舎(がっこう)」に遊学すれば同窓は「庠名」を名乗り、上級の科挙に受かれば「傍名」を名乗って朋友と交わる。最上級の科挙である朝試合格の場合は「甲名」で告知され、官職に就いたら「印名」を名乗る。
誰でも幼名や書名で呼んでいいが、成長した後に付けた名前は「君父師長」でなければ呼ぶことは出来ない。妻を娶り一家を構えたら、父や兄、それに伯父と叔父は字で呼ぶ。それも友人付合いや一族兄弟の間では口にできるが、名刺や書簡に署名する際には使えない。字に別字、号に別号があるが、他人は呼べるが自分で名乗ることも名刺に記すことも出来ない。全く混乱するばかり。友人同士では字ではなく名を呼び合う。だが名刺や書簡に署名する場合は、名ではなく字か号を使う。号なのか別号なのか、字なのか別字なのか。なにがなんだか定まった呼び名がみられない。
であればこそ、公文書・私文書に関わらず「一つの實名」を使う至便このうえない我が国に、中国が敵うわけがない。(3月18日)――
以上を4文字で言い現せば繁文縟礼ということだろうが、岡の「中俗無謂者甚多」という主張は十二分に納得できる。一生のうちに、かくも多くの名前で呼び合うマトモな理由があろうとは、とても思えない。纏足にしてもそうだが、なぜ、かくも複雑怪奇な習俗が生まれ、受け継がれてきたのか。伝統だからというだけでは、神州高潔の民の末裔としては、どうにも理解に苦しむ。
やはり中国=莫明其妙×繁文縟礼×虚礼粉飾×夜郎自大×猪突爆走・・・です。《QED》