【知道中国 1339回】 一五・十二・廿
――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡80)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
漢族にとって学問とは政治そのものであった。であればこそ少数の満州族で圧倒的多数の漢族を支配することとなった清朝(=満州)は、漢族知識層に学問の自由を許さなかった。かくて彼らは「經疏(じゅきょうこてん)を穿鑿し謬異を講究す」ることに学問の道を求めることとなった。清朝考証学のはじまりである。古くから伝わる古典を総攬し、1文字1文字の典拠と正しさを「穿鑿」し、その「謬異」を論じ尽くし、儒教古典の原初の形を究めようとしたのだ。その代表が明末清初に活躍した顧炎武(1613年~1682年)であり清朝盛時の銭大昕(1728年~1804年)だった。
岡は続ける。
――顧炎武が興し、銭大昕が引き継いだ清代考証学は新奇を衒うばかりであり、「紛亂拉雜(でたらめさ)」という観点に立てば、宋代儒学の百倍も無益というしかない。若くして才気ある者は「詩文書畫」によって名声を博し、かくてカネ儲けに奔ることとなる。無益無用のものを弄び、心を失い、心身の豊かを忘れるばかりだ。「風雲月露」を話題にはするが、口先だけ。その振る舞いは、晋代(265年~420年)に利害打算が渦巻く現世を捨てて竹林に遊び人生を尽蕩した七賢人とは違いすぎる。
役人から使用人まで下々のヤツらは慇懃無礼に立ち居振る舞い、己を欺いて人を売ることを専らとしている。商人や職人は学問はないものの、身なりを整えては扱う品物の値段を釣り上げ、粗製乱造した半端モノを売りつけては人の財産を騙し取ろうとする。だが、この程度ならまだ許せるかもしれない。最低は犬やら鼠と同類で、コイツらは法や刑罰の何たるかも弁えず、他人の家の門口に立っては憐れみを請い、「穢汚」ということすら知らないほどに汚い。
彼らの人となりは「輕躁(おっちょこちょい)」で「擾雜(わずらわし)」く、「喧呼(さわがし)」く、そのうえ「笑罵(けたたましい)」。それというのも「風俗(ひびのいとなみ)」は「頽廢(デタラメ)」で、「教化(きょういく)」は行われず、「政教(まつりごととおしえ)」は跡形もなく消え去ってしまったからだ。無秩序の極致と言うものだろう。にもかかわらず外国人を「侮蔑(ばかにし)」て、「頑見(おろかなかんがえ)」を言い張り、傲然として自らを「禮儀大邦(れいぎのたいこく)」と己惚れる。この国を、欧米人が「未開國」と見做すのも、それなりの理由があるのだ。(3月16日)――
最終部分の原文は、「其人輕躁擾雜。喧呼笑罵。此皆由風俗頽廢。教化不行者。嗚呼。政教掃地。一到此極。而侮蔑外人。主張頑見。傲然以禮儀大邦。自居。歐米人之以未開國目之。抑亦有故也」。漢字の字面を追ってみるだけでも、岡が伝えたかったことが手に取るように判るだろう。
翻って現在の中国と中国人を考えるに、上は共産党最上層の醜く露骨な権力闘争から、下は俄か成金たちの海外旅行や爆買いまでを言い現そうとすれば、やはり先ず頭に浮かぶのは「輕躁擾雜」「喧呼笑罵」「風俗頽廢」「教化不行」「政教掃地」「侮蔑外人」「主張頑見」などの4文字の組み合わせ。ということは岡の時代から現在まで130年余は過ぎているはずだが、中国人の性格は一向に変わってはいないということになる。やはり万古不易で「輕躁擾雜」、一貫不惑で「主張頑見」・・・いやはやタマリマセン。
これを簡単明瞭に言い換えるなら、やはり「未開國」というべきか。「未開國」は「未開國」のままでもいいのだが、困ったことに現在の「未開國」は岡の時代と違って莫大なカネとあらぬ自信(正確に表現するなら「過信」であり「己惚れ」)を持ってしまった。俗にキチガイに刃物というが、まさに「未開國」にアブク銭ではなかろうか。《QED》