【知道中国 1338回】 一五・十二・仲八
――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡79)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
台湾北部の東西の要衝である?籠と淡水は「盡く法の手に歸」したものの、両港共に地形的に軍艦が碇泊するには甚だ不向き。そこでフランス海軍は作戦を転じた。
――台湾海峡に浮かぶ澎湖島に狙いを定め、同島瑪宮港を根拠地とすべく攻撃した。守備する「中兵」は2500人。フランス海軍の艦砲射撃が始まると、「中兵、力盡(ひっし)に遁走す」。瑪宮港全体を制圧したフランス側は国旗を掲げ、軍艦10隻を停泊させ、周辺海域の巡邏に移った。すると500人の「中兵」を乗せ台湾に向うイギリス艦船を発見し追尾の末に拿捕し、瑪宮港まで曳航したうえで、艦長と兵卒をサイゴンに送致した。途中、兵卒25人は海に身を投げて死亡。
フランス兵は百戦百勝の勢いだが、「中土」も防戦の意志は固く、負けても負けても各地から義勇兵を募る。兵の数は日に日に増えるものの、その姿はまるで手足の萎えてしまった病人にカンフル注射を打って強引に「活?元氣」に突き動かそうとするようなもの。フランスとしては打つ手がなさそうだ。前線から兵器を引き上げ兵士を後退させ、どうすれば戦争を終わらせることが可能なのか。その潮時の見極めを誤るなら、混乱がさらに深まることを知るべきだろう。まことに戦は収めるのが至難だ。(3月11日)――
14日、黒田清隆の香港到着を知り、使いを出して挨拶をするついでに、伊藤・西郷の両大臣が明治天皇の「重命」を奉じて北京に赴いているというのに、香港辺りを「飄然游覧」する理由を問う。すると黒田から「日來鬱病にして、旬月の暇を請い、域外の游を擧ぐ」との返事が返ってきた。じつは黒田は香港滞在の後、広東・澳門・サイゴン(現ホーチミン)・シンガポール・福州・澎湖島・台湾(淡水・鶏籠)・天津・北京・張家口・漢口・宜昌と「里程凡一萬二千二百三十七英里日タル百八十五日」の旅を送り、その間の見聞を『漫游見聞録』(上下)として残している。これほどの旅である。「日來鬱病」は口実としか考えられない。やはり日清開戦必至と読んだからこその敵情視察、つまりは兵要地誌作りだったと看做すのが常識というものだろうに。
朝鮮半島問題交渉使節として伊藤・西郷の両重臣を北京に送り込む一方で、黒田を中国の経済活動の中心地に派遣する。まさに明治政府最高首脳を挙げての“抗戦力調査”といえそうだ。伊藤・西郷・黒田の動きから判断して、我が明治政府は日清戦争開戦から10年ほど遡った明治18年初頭には既に開戦への準備に踏み切っていたとも考えられる。用意周到だ。(因みに『漫游見聞録』については、『觀光紀游』が終わった後に検討を加える予定)
16日は厳寒並みの寒さに襲われ、数日試みた轎(かご)での外出を控えた。そこに中国留学経験者の桜泉がやって来て、「中土」の「弊風(ダメさ)」を語り出す。その内容が「極めて的切爲り」と認めた岡は、桜泉の主張を書き記している。その概要は、
――「中土」の立派なところは、士大夫が名分と教化を重んじ、礼儀を尚び、志操堅固で高雅な風を体現し、温和な振る舞いを見せるところだ。一方、農民や労働者など力仕事に従う者は労苦を厭わず、「菲素(そしょく)」に安んじ、ひたすらに生活に励む。コツコツと財産を蓄える姿は、わが国ではとても真似のできるところではない。
だが士人は「經藝(こうとうむけい)」を論じ、有限である人生の貴重な時間を無為に送ってしまう。それというのも、科挙合格によって名誉と富を一気に手にしようとするからだ。賄賂に耽り、家を富ませ、財を肥やして悦び失うことを憂う。まことに「廉耻蕩然(はじしらず)」。加えて「家國の何物爲るかを知らず」。「名儒大家」などと世に「泰斗」と呼ばれる学者は日夜「經疏(じゅきょうこてん)を穿鑿し謬異を講究す」(3月16日)――
「廉耻蕩然」は大納得ですが、「如知端詳、下回分解」ということで小休止。《QED》