【知道中国 1337回】                     一五・十二・仲六

――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡78)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

朱子学であれ陽明学であれ、極論するなら「高度な頭の体操」。「言語玩弄」であり「観念の遊戯」といったところだろう。だが江戸の日本人は違った。朱熹や王陽明が書き残した文章に真正面から立ち向かった。脳味噌を絞り考え抜き、我が命と引き換えに実践に移した。そこに日本人の誤読、あるいは生真面目さが招きよせる過度の深読みがあったように思う。敢えて言うなら、漢字が読めることの不幸。嗚呼、同文同種・・・クソ喰らえ。

 

半世紀程の昔、ある人の紹介で当時の日本における陽明学の権威という方に話を伺う機会をえた。その大仰な立ち居振る舞いは、20歳頃の若造から見てもクサすぎた。陽明学の神髄である「知行合一」について語ってくれたが、その時、明代の書籍に記された「会不会」「以為」を如何に読み解釈すべきか問われた。返答に窮していると、「『会(え)すや会さざるや』『以て為(おも)へらく』と読むのが正しいんです」と。その瞬間、ああこれはダメだ、と。じつは「会不会」も「以為」も現代でも日常会話でも使われ、単に前者は「できますか」、後者は「思います」の意味ではあれ、彼が熱く解説してくれたような“支那哲学の高踏で深淵な哲理”が隠されているとは思えなかった。当然、その後、彼の処に顔を出すことはなかった。お出入り禁止ではなく、コチラから敬遠(いや軽遠)である。

 

8日、海南島からトンキン湾一帯を歩いて来た軍事密偵と思われる山吉の訪問を受けた。安南は武器弾薬食糧まで広東省に頼っている。だからフランスは広東と安南を結ぶトンキン湾の周辺港を封鎖し、安南に降伏を逼る方針らしい。兵站線を断つ作戦だ。

 

翌日、中国人の友人が、台湾で予想外の抵抗がみられるところからフランスは攻撃の重点を安南に移した。広東と安南を結ぶ重要港を封鎖し、安南の息の根を止める作戦のようだ、と語る。香港で発行されている英字紙は、フランスは軍を2つに分け、陸上ルートでは安南から、海上ルートでは北海港から広東・広西の両省を「蹂躙」し、東南地方から清国に威圧を掛ける計略だと報じる。

 

なにやら情報が入り乱れる。そこで岡は、

 

――どうにも西洋人の新聞は揣摩憶測ばかりだ。清仏戦争が勃発して以来、流言飛語の類が多く、新聞もまた誇張して人々の注意を引こうとする。まさに「一犬、實に吠えれば、萬犬、虛を傳う」とは、往々にしてこういう情況を指すのだろう。(3月9日)――

 

古今東西を問わず、情報が商品である以上、客の好みに合わせなければ売れない。売るためには客の好みに沿わせる必要がある。いつの時代であれ、自分の好みに合わない商品にカネを払う客はいない。「西洋人」は「揣摩憶測」を好むから「西洋人の新聞は揣摩憶測」の類を流すのではないか。だが情報という商品が持つ特殊性、つまり他への波及力・訴求性・影響力を考えるなら、「萬犬」が伝える「虛」を排し、「一犬」が吠える「實」を如何に知るかが重要になる。だが、それが至難なのだ。

 

11日、菅川なる人物がフランス人の記した台湾の戦況を伝えている。これまた関心を引いたらしく、岡は詳細を書き留めている。その概要を記すと、

 

――雞籠港は北は大海に臨み、3方は絶壁で守られている。西南の風を避けることが出来るが、備えのない北方からの風に多くの船舶は座礁し破損してしまう。石炭鉱山があり、「中土造船機器諸局(きんだいてきこうじょう)」が使う石炭を供給している。

 

フランス海軍は5隻の艦艇で1200の兵を東南峡谷から防備陣の不意を衝いて上陸させ、奮闘の結果、初日には第一堡塁を、2日目には第二堡塁を落とした。「中兵」は苦戦の末に2日目夕刻には堡塁を捨てて潰走した。フランス軍は破竹の勢いである。(3月11日)――

 

東海岸と同じで西海岸の要衝である淡水もまた「盡く法の手に歸す」のだ。《QED》