【知道中国 1004】       一三・十二・初九

 ――「『あんまり無理しなさんなよ』とでも呟きたいところだが・・・」(里見の2)

 「隣邦の今昔」(里見弴 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 誰が里見に「魯迅逝去後二十周年に当たる記念の祭典に参列すべき代表の話を持ち込ん」だのかは不明だが、その人物から長与善郎(明治21=1888年~昭和36=1961年)から式典参加の返事がもらえないという相談を受けた。そこで「われわれ年輩で、一夜魯迅と会って懇談し、而もそうとう感心し、好意を持った者は、文壇広しと雖も彼を措いてほかにない」と考える里見は、「即刻電話で再考を促した」。

 すると「そんなこと言って、一体君はどうなんだ。行く気あるのか?」と返ってきた。そこで里見は「『俺はいやだが君は行けよ』とも言えず、『そりゃ、まァ君が行くんなら行ってもいいさ』と答えて了った」とか。「かくして、思い設けず『国賓』たる光栄を担うに至った次第、天なり、命なり矣」ということになる。

 「昭和三十一年十月十九日午後二時から『中国文学芸術連合会』をはじめ七団体主催による『魯迅先生逝去二十周年記念大会』が『政協礼堂』という、優に二千人を容れそうな真新しい建物で挙行された」。日本代表として参加したのは里見、長与、それに生前の魯迅が通い続けた上海の内山書店主人の内山完造の3人。彼らは13日夜半に羽田を発って、16日には北京に到着していた。

 当日は「上下隔てなく国民服、国民帽のお国柄に、その必要もなかろうとは思ってけれど、やはり一応の礼装を整えて、定刻会場に向かった」。
 当然のように中国政府首脳陣も参列する。「毛沢東の顔は見えなかったが、周恩来や郭沫若が愛想よく出迎えて、遠路の労を犒い、蒼黄、痩躯の長与には、『寒くはないか、かまわず外套を着ていてくれ』とか、私には『あなた、北京はこんどで二度目でしたね。ずいぶん変わったでしょう』とか、なかなかもって日本の政治家輩の及びもつかぬ当たりの柔らかさだ」。

 里見は戦前の中国での印象を「いかになんでも不愉快になって了う」などと綴っていたことを、おそらく周恩来などは十二分に承知していただろう。かくして「あなた、北京はこんどで二度目でしたね」と口にしながら、「日本の政治家輩の及びもつかぬ当たりの柔らかさ」で相手に探りを入れてくる。これが招待外交の妙、といったところだろう。

 郭沫若の挨拶で大会が始まった。ソ連、ビルマ、ユーゴスラビヤ、パキスタン、インドネシア、アルバニア、ポーランド、イギリスの次が日本代表の長与の番だが、どうやら会場の音響施設が悪いうえにイヤホーンによる日本語通訳もない。だから各国代表には長与が何を言ってるのか判らない。長与の後は、ブルガリア、朝鮮、ルーマニア、ヴェトナム、豪州、イタリア、蒙古、ハンガリー、チェッコ、ユーゴと次々に登壇する。「多かれ少なかれ、外交辞令的随従や、自国の宣伝や、魯迅に対するお座なりの礼賛渇仰やを含んでいないのはなかった」。「まずまず無難に思えたのはイギリスくらいだった」ようだ。

 かくて里見は会場での印象を、魯迅の「人間が直立できるようになり、話すことを覚え、字を造り、文を綴るようになったのは、それぞれの時代に於ける大進歩であることは無論だが、しかし同時に堕落でもあった。なぜなら、以来、余計な口を利くようになったからだ。つまらない饒舌はまだいいとして、心にもないことを言って、しかし自分でそれと気づかずにいるに至っては、鳴いたり吠えたりしかできない動物に対しても忸怩たるものがなければなるまい。」(「犬、猫、鼠」)を引きながら、「魯迅の大肖像を背に負って、それぞれ長広舌を振った大勢の『外賓』だちは、亡き文人の耳になんと映ったろうか。『鳴いたり吠えたり』以下でなかったとすれば幸これに過ぎない」と綴る。

 里見は“食えない爺さんぶり”を発揮しつつ、新中国の街と人の観察を始めた。《QED