【知道中国 1336回】 一五・十二・仲四
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡77)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
これまでも岡は、孔孟の学問は後の中国の学問とは全く異なる。実学を求めた本来の孔孟の道は遥か昔に中国では廃れてしまった。実学重視の考えは、意外にも西洋近代の教育制度に生かされていると主張している。以下は岡の主張の集大成とも言えそうだ。
――孔孟の論ずるところは「大中至正」にあるが、後世の孔孟学徒は形式のみを紛々擾々と論ずるだけで、孔孟の学問の本質を考究しようとはしなかった。かくして現在に立ち至ったわけだが、『大学』は学問を論じて「格致」といい、「誠正」という。「誠正」とは「徳性」を尊ぶことであり、「格致」とはモノの本質を窮めること。徳性であり科学である。往古の三代の学には「誠正」と「格致」が鋳込まれていた。いま欧州の情況を概観すれば、宗教によって「徳性」を修めているが、上は王侯から下は衆庶に至るまで「救主(キリスト)」に誓い「十戒」を守る。だが、これは我が孔孟が論ずる志操の気高さとは異なる。
「格致」を深化させて「学問」となり、「天地萬物(てんちうちゅうのしくみ)」は実際に基づいて「實理」を極めるしかない。「政刑兵農工商(このよのいとなみ)」などありとあらゆる技芸は分れて「專門一科」となり実状に即するからこそ実業となる。それは万巻の書を渉猟して有り余る該博な知識を誇り、詩文を弄して名声を得て幸運にも財産を手にすることとは全く違うのだ。そんな世間の役に立たない行いなど、じつに恥ずべきことだ。
西欧は日に日に強大になり、こちらは衰退するばかり。それもこれも学問の神髄に対する心構えが違うからだろう。かねてから西欧の学問を是とし、中国古来の学問を非としてきたわけではない。じつは「三代の聖人」が天下を率い「誠正格致之學(しんのがくもん)」を行なっていたなら、現在のようなブザマな姿になろうはずもなかった。
これまでも説いてきたことだが、西洋では5歳にして小学校に進み、「語言文字圖畫算數體操。人生普通學科」を学ぶ。長ずるに及んで頭も良くなく困窮した家庭の子女は、「農商職工諸業(てんしょく)」に就いて生計の道を身につける。頭のいい子供は上級の中学に進学し、「天文地理動物植物(しぜんのことわり)」などを学び、自然科学の本質を窮める。その先は各科専門学校に入り、実際の情況に即して「實事」、つまり西欧流の人智を開き事業を成し遂げ宇宙が持つ生成化育の仕組みを学ぶことだ。
専門学校を修了したら、在学中に学んだ学科に従って仕事に就く。文武百官はいうまでもなく、農商業、あるいは紡織に携わり、懸命に理財に努め機器を改良する。まさに科学技術は学問が生み出すのである。
清国の惨状はいわずもがなではあるが、すでに往古三代の世では大学と小学を設置し、8歳の学童に「禮樂射御書數(じつようがくもん)」を教えていたではないか。三代の世に人材が輩出したのは、この制度があったからだ。(3月6日)――
実学を軽んじて廃し、古典の字面のみの詮索に固執して数千年。ついに中華王朝は断末魔の時を迎えた、ということだ。とはいうものの岡に逆らうようだが、往古三代にマトモな学問が行なわれていたとは到底信じ難い。
ここで現代に。毛沢東は人民に「専より紅」を求めた。専門知識(「専」)はその多寡や優劣によって人々に等級をつけ、何より平等を求める毛沢東式社会主義社会に格差を生む。だから誰もが「為人民服務」を柱とする毛沢東思想(「紅」)を断固として拳々服膺すべし、と。一方、毛沢東が築きあげた壮大な貧乏の共同体の解体という難事業に立ち向かった鄧小平が唱えた「白ネコでも黒ネコでもネズミを捕るネコがいいネコだ」は実事求是、つまり屁の役にも立たなかった毛沢東思想への断固たる決別宣言。かく考えると、鄧小平の決断は、岡による中国の伝統学問に対する批判と互いに通ずるようにも思えるのだ。《QED》