【知道中国 1334回】 一五・十二・十
――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡75)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
26日、依然として病は癒えず部屋で読書をしながら時を送るしかなかった岡を相手に、宿舎の主人が話し込む。話題は香港の経済活動の柱である「自由放任主義(レッセフェール)」に。これまた岡の興味を引いたらしく、詳細な聞き書きを残している。その概要は、
――「中土」では各港に海関を輸出入品に税を掛け徴収している。だが香港だけは違っていて、海関が置かれていない。だから内外の遠方の交易商人であろうが、香港での取引を求める。例えば四川では漢方薬が取れるが、遥々と長江を下り大海を帆走して香港までやって来て商いをする。そでは偏に税を取られないからだ。
その代わり香港では、ありとあらゆる方法で細大漏らさずに税を納める仕組みが張り巡らされている。土地の広さ、屋敷の規模に応じて税を納めねばならない。これを「国餉」と呼ぶが、この他には街灯・井戸・泉・道路・橋といわず、修理に要する費用は、家ごとに醵出する。「酒亭茶店。烟館妓院(ふうぞくえいぎょう)」は月ごとに課税する。「艇子輿夫。負販傭丁(せんどう・かごかき・やたい・にんそく)」は季節ごとに「牌片(かんさつ)」を給付して課税する。滞納者は処払いとなる。法律は厳格で、その施行はまるで湿った薪を束ねるようにキッチリと峻厳だ。会計事務は厳格で入出金の金額に応じて定まった規則があり、僅かな金額でも役人が掠め取ることはできない。明朗で厳格な制度といえる。
夜の9時からは外出禁止となり、街に人影を見ることはない。1時には人足が家々を回り糞尿を集め「汚器(おまる)」を掃除する。6時になると車を引いた人足が家々を訪ねゴミを回収する。家々が軒を接するように建て込んでいるが、ゴミは全く見当たらない。
これは欧州の制度を、中国人の生活様式に沿って厳格に定めたからだ。上海と香港で、その一斑をみることができる。(2月27日)――
これを植民地経営の妙というに違いない。彼ら西欧人は植民地の住人に甘い顔なんぞは絶対に見せない。“一視同仁”などと口にして感傷的な対応はしない。自分たちの植民地経営の都合に合わせて徹底的に現地人を鍛え直す。使う者と使われる者の違いを嫌というほどに判らせる。体に覚え込ませる。であればこそ香港にせよシンガポールにせよ、現在に繋がる発展を考えた時、英国式植民地経営の恩恵を最大限に受けたということだ。これは皮肉でもなんでもない。かりに日本敗戦と同時に香港が中国側に返還されていたら、おそらく現在の繁栄はなかったはずだ。
2月28日、どうやら病状も好転の兆しがみえてくる。医者の勧めで鶏スープ、パンに牛乳、さらにお粥を口にし、竹製のベッドに移る。かくて「大いに愉快を覺える」と記す。そこに日本人の知り合いが2人やって来て、「ロシアとフランスは『中土』を『腹背』から攻撃すべく密約を結んだ。そこでロシアの艦隊はフランス国旗を掲げて香港に入港している。プロシャは密かに『台灣半島』を狙っている」と、中国を巡っての最新情勢を語った。それを聞いた岡は、
――彼らは「中土の虛實」を熟知し、古くから野望を抱いていた。ただロシアとプロシャの両大国は他国の弱みに付け込み、フランスの背後に隠れ領土掠奪に努めているのではなかろうか。おそらくロシア・フランス密約説は揣摩憶測の類だろう。ロシアは専ら北辺を狙い、フランスは南方の国境を窺っている。(この後、ロシアによる清国領土強奪の歴史を列記し)これは、「六國の秦に賄(まいない)するの勢なり」。(2月28日)――
趙・韓・魏・燕・楚・斉の戦国の6国は当初は相互に連携し強大な秦に対した(合従策)が、後に秦は2カ国関係を求め(連衡策)、6国を各個撃破し最終的に天下を握る。弱体化した清国に対しロシアが2カ国関係を強要することの真意が、そこにあった。《QED》