【知道中国 1332回】                      一五・十二・初六

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡73)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

あれから35年ほどが過ぎた。今頃、あの2家族はどんな生活をしているだろう。計画通りに医者を開業できただろうか。中華レストランが大当たりで、医術より算術に邁進していることだったアリだ。新たに中国から押し寄せる不動産爆買い客を狙って不動産ビジネスにも進出しているかも知れない。いずれにせよ彼らは、「木は動かすと死ぬが、人は動かすと活き活きする」という中国の諺の通りに、動いて行った先のオーストラリアと言う新天地で活き活き――ということは手前勝手に生き抜いていることだろう。あるいは早々とオーストラリアに見切りをつけ、アメリカ辺りに移っていることだってありうる。

 

ここで中国人統治に関する毛沢東と鄧小平の手法を単純明快に比較してみると、毛沢東は全土を「竹のカーテン」で囲うだけでなく、戸口制度によって中国人の国内移動すら厳禁し、都市住民を国営企業に、膨大な数の農民を人民公社に縛りつけておいた。定められた住所から2泊以上離れる場合は公安に届け出る義務があったというのだから、徹底している。つまり中国人を一歩も動かさなかった。ところが鄧小平は毛沢東の中国人管理の柱であった人民公社と国営企業を解体し、膨大な数の農民と都市住民の移動を容認した。あまつさえ竹のカーテンを引っ剥がし、合法・非合法の別なく中国人を海外に解き放ってしまったのだ。

 

いわば毛沢東によって動くことを禁じられ瀕死状態に陥っていた中国人は、鄧小平の超ゴ都合主義としか表現しようがない身勝手開放策によって息を吹き返すこととなった。ヤレヤレ、である。だから“世界の大迷惑”は、じつに鄧小平に端を発する。であればこそ、やはり世界は毛沢東に感謝すべきだろう。毛沢東の時代、世界は「中国の夢」に苦慮することはなかったし、「郷に入っても郷に従わない中国人」の集団に平穏な日々を脅かされることもなかった。外来の新参者でありながら住み着く先々でその土地の生活文化を守らず、不遜にも中国式身勝手生活を恣にするだけでなく、人民元の札束を振り回して他国の不動産を買い漁る彼らに悩まされることもなかったはずだから。

 

岡に戻る。

 

依然として病は好転しない。外出もままない。新聞に目を落とすと、そこに清末指導者の代表格である曾国藩の息子である曾紀沢の動静が記されていた。彼はイギリス、フランス、ロシアなどに派遣され難しい外交交渉を担当している。ことに対露交渉では、イリなど要衝の失地回復に成功を納めた。以下、岡は綴る。

 

「イギリス滞在中の曾紀沢は「宇内大變局」を実感しているからこそ、次のように問い掛けているのだろう。「中人」の識見は頑迷であり、相変わらず古を手本としたままだ。列強が国境に逼り、国事は累卵の危機に陥っているにも拘わらず、猶も腐れ切った頑迷固陋な考えに囚われたまま。「西法(おうしゅうのしくみ)」は遅れたままで取るに足らず、「西人」を「薄(かろ)」んじて交わる必要ななしと「放言」するばかり。その様は井戸の中から天を窺うようなものだ。いまこそ決起して政柄を執り、世の乱れを正そうという志を持ち「廓清の功」を世に問おうという英傑はいないのか。(2月21日)」

 

曾紀沢の主張は、日頃からの岡の考えと同じだ。そこで岡は、この日の日記の最後を「此言得矣(このげんやよし)」と結んだ。

 

翌(22)日、「『中土』に在ること最も久しい」町田領事が来訪すする。上海、漢江、福州、広東など中国に19カ所ある対外貿易港に就いて語りだした。どこの埠頭にも大廈高楼が並び立ち、汽船やら帆船が海面を埋め尽くすほどに賑わいを極めてはいるが、「それ貿易權利を主る者は一に緑眼人に非ざる無し」と。岡は町田領事の説く話に耳を傾ける。《QED》