【知道中国 1331回】                     一五・十二・初四

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡72)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

ここでオーストラリアにおける中国人の歴史を、簡単に振り返っておきたい。

 

1847年に約3000人、翌(48)年にはマカオから120人が華工(中国人労働者)として渡っている。じつは、それ以前、かなり早い段階から中国人商人がオーストラリア北部に到達していたともいわれる。中国側が語る歴史だから若干、いや相当に割り引いて考える必要もあろうが、オーストラリア北部とインドネシア東部は地理的には「一衣帯水」の関係にある。ジャワ島東部の要衝で、中国式漢字地名表記で「泗水」と綴るスラバヤが古くは宋代からの既に中国人の街であったことを考慮すれば、相当に早い時期からオーストラリアに移住していたとする説も中国人特有の歴史的大ボラといえそうにもない。ならば、そのうち中国式超身勝手強欲思考によって、「オーストラリア北部は元来が中国人商人による交易圏に組み込まれていたわけだから、あそこも我が領土だ」なんて言い出しかねない。何とも厄介極まりない話だが。

 

じつはアメリカ西海岸でゴールドラッシュが起こったことで、大量の華工が太平洋を渡ったわけだが、1851年にはオーストラリア東南部(ヴィクトリア州、ニュー・サウスウエルズ州)でゴールドラッシュが起り、これまた福建・広東辺りから華工が大挙して押し寄せている。二木が語った「四十萬戸」は、この種の労働者を指すと考えられる。ところで中国人はアメリカでのゴールドラッシュの中心だったサンフランシスコを「旧金山」と漢字表記するが、それはオーストラリアでのゴールドラッシュに先んじたから(「旧い」ということ)であり、それゆえにオーストラリアは「新金山」ということになる。

 

つまり中国人の移住と言う視点に立てば、中国とオーストラリアの関係は意外にも古く、また複雑でもある。

 

そこで、またまた香港での体験を。

 

あれは改革・開放政策が緒に就いた80年代の初頭だった。バンコクでの調査からの帰り香港に立ち寄ると、友人が面白い人に会せるからついて来い、と。彼の後を追うと、繁華街の裏通りの建物へ。年代物のエレベーターで上って行くと、そこは彼の友人の住宅だが、目指すのは友人ではない。友人の家の1部屋を間借りしている借家人だ。ドアを開ける。広さ6畳ほどの部屋の大部分を占拠しているのは、木枠で頑丈に梱包された数多くのスーツケース大の荷物だった。そこに住むのは兄弟2人の家族に彼らの母親。全部で11人。荷物の最上部に布団が敷かれていた。荷物の天井の間の空間が、彼らにとっての居間兼寝室。

 

彼らはハルピンからやって来た。兄は医者で、弟は確か営林署で働いていたと自己紹介してくれた。オーストラリアへの移住許可待ちで、香港に留まっているとのこと。ハルピンから香港までの長距離の汽車の旅である。現在と違い路線の連絡は悪く、乗り換えは数知れず。その都度、全員で手分けして積み替えたというから、想像を絶する苦労があっただろう。「駅員の手伝いは」と尋ねたら、「誰だって他人のことなど構っていられないわけだから、自分たちでするしかなかった」と。「オーストラリアに移住した後の生活は」。すると兄の方が生活設計を解説してくれた。

 

「医者を続ける積りだが、中国の医者の免許を、オーストラリア政府がそのまま認めてくれるとは思わない。ダメなら医者の試験を受ける。だから医者が始められるまでは、兄弟2家族は中華料理で食い繋ぐ。鍋釜の台所道具は持ってきた。弟の得意料理は餃子で、私はチャーハンだ。取りあえず餃子とチャーハンさえ出しておけば、オーストラリア人にとっては立派な中華料理だ。彼らに料理の味など判るものか」

 

帰国後暫くして友人から、あの一家は無事にオーストラリアに旅立った、と。《QED》