【知道中国 1005】 一三・十二・仲一
――「『あんまり無理しなさんなよ』とでも呟きたいところだが・・・」(里見の3)
「隣邦の今昔」(里見弴 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「早くも足かけ二十六年前になる。昭和五年、一月中旬から十日間、志賀と二人で、私は北京(当時の北平)に滞在した」と回想しながら里見は、「初めてと二度目、或は年齢の相異などを差引いても、なおかつ前の時の楽しさと今度の退屈さとではてんで比べものにならなかった」と、新しい中国の「退屈さ」を指摘する。
「蠅がいなくなったとか、路面が舗装され、常に清掃されているとか、労働者や農民の生活が向上、安定したとか、掏摸盗賊の類が跡を絶ったとか、なんでも公定価格がゆえに安心して買物ができるとか、その他等々の、・・・・・一旦その気にさえなれば、いくらでも褒めるたたえられる改変については、生憎、読んだり聞いたりでおよその見当がついていたし、同歓共苦の善隣精神もあまり強いとは言えない方だし、正直なところ、平生親しく交際ってもいない遠縁の息子か娘が抜群の成績で進級したとか、一流会社に就職できたとか聞くほどの気持で、先方から賛辞を期待、もしくは強要されればされるほど興が醒め、口が重くなった」と、呟いてみせた。まあ“憎まれ口”といえなくもなさそうだが。
だとするなら、「街を歩くだけであんなに楽しめたのに、とつい昔を懐かしく思」う里見の目から見て、北京はどう変わってしまったのだろうか。
「建造物は、まま塗装あらたにけばけばしくはなったにしろ、そこらまではさして昔と変わろう筈はないのだが、その、自然にしろ、建物にしろ、鮮明さを極めた観景に点ずるに、女はもとより男でも、一種独特な色調をもつはでなシナ服(ここはどうも「中国服」では感じがでない)を着た者が一人もいなくなった、ということは、とりもなおさず、北京から北京の自然が要求するところの色彩のうち、可なり重要なる一部を取り除いて了った、と言うのも過言ではあるまい」。
里見の考えによれば、北京の人々の服装の色調もまた北京という街にとっては「可なり重要な一部」ということだろう。そこで「毛首席はじめ一列一体に折角着なれた紺色の国民服を、『外賓』の美的感覚を満足させるために、以前の色調に戻せとは、いかにも暢気な観光客でも発言しかねようけれど、自然との調和を欠くか欠かないかが、全然感受されていないとすれば、そういう国民なり政府なりに対して、多少の失望を感じたところで別段不思議はなかろう」と、新しい中国が「自然との調和」に考慮していない点に失望を隠そうとしない。(なお、「毛首席」は原文のまま)
かくて里見は色調の画一化(延いては社会全体の画一化に通じるのだろうが)を進める「彼らを頭から軽蔑したりするのも性急に過ぎようけれど、民度を計る感覚的バロメーターがそれらのことで少しの移行をも示さないならば、やはり修繕を加える必要がある」とし、「人意によって自然との調和が破られるということで、そこに何等かの『無理』が感じられたのは、あながち私の偏見とばかりも言えまい」と続ける。
今、目の前にしている26年の時が過ぎた北京の街から、里見は「無理」を感じ取った。
「古来、この国の国民性には、『無理をしない』という特徴があるのだから、一層ちょっとした無理まで浮きあがって見えたのだろう。勿論、あらゆる特徴がそうであるように、この『無理をしない』にしても、現象として、よい場合や悪い場合の千差万別はあるのだが、ここではごく軽い気持ちで、『あんまり無理なさんなよ』とでも呟きたいところだ。點景人物の服装が紺ひと色になったなどは、もとより末の末で、劃一主義で押そうというのが、どだい『無理』の塊り、何やら通れば道理ひッこむとは、夙にいろは骨牌の喝破するところだ」と、早くも“新中国の危うさ”を喝破したのである。
大歓待に舞い上がってしまった柳田等に較べ、里見の冷静さは痛快で頼もしい。《QED》