【知道中国 1328回】                      一五・十一・念六

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡69)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

1月27日の最後は「晩來惡寒異常」と綴られているが、以後、「至晩發熱」、「下痢數四」、「自覺不快。寒熱不時」、「往往不眠」、「下瀉數次。愈覺疲労」「此日頻頻下瀉」「下瀉依然」など体調不良の記述が続く。どうやら広州では効果的な治療法が見つからなかったらしく、2月12日には広州を発ち、同日に長崎出身の廣瀬要吉が経営する香港の旅館に到着。翌日、イギリス人医師の診察を受けるが、過食と広州の湿気と寒さが原因とのことだった。

 

14日は「中暦除夕」。香港の法律では爆竹は禁止だが、この日ばかりは例外で、夕暮れと共に街全体が振動したかのように爆竹が鳴り響き、明け方まで続いた。岡は病床で、

 

――「中土」の風俗は全く以て不可解だ。墓は風水によって決められるし、「仙佛巫祝(なんでのかんでも)」も信じている。そこここに「淫祠(いかがわしいかみさま)」が祀られ、ロウソクの火が絶えることはない。毒を持っていることを知っているくせに、アヘンが止められない。冠婚葬祭や節句となったら爆竹だ。こういったことは「士大夫の理を見るに不明にして、道を信じるに篤からざるに由るなり」。(2月14日)――

 

つまりは士大夫などとそっくり返って威張ってみたところで、しょせんは「讀書に溺れ」るのみで、「理」も「道」も判ってはいないということだろう。

 

明けて15日は春節元旦。イギリス人医師の往診を受けながらも香港の正月風景を綴る。

 

――街は晴れ着を着て新年のあいさつ回りに歩く男女で賑わいを見せている。少女が髪を結ぶ長い赤い紐は背中から垂れ下がり地面に届きそうだ。戸外には紅紙が貼られ、「蓬?は壽色を呈し、松竹は祥烟を繞らす」などの目出度い聯句が大きく書かれている。中国の風俗では紅色が尚ばれ、街の看板、寺廟の扁額、名刺や封筒はみな紅色だ。聞くところではヨーロッパ人は児童が好むところから紅色を「幼穉色」と称している、とか。

 

いまや「萬國風氣(こくさいじょうせい)は一變し」、知識は日進月歩の時代だ。にもかかわらず「中人」は「千年古轍(ふるくさくかたいあたま)を墨守し、日々の変化がもたらす成果を知らない。であればこそ、「幼穉」と指摘されても致し方ないだろう。(1月15日)――

 

ならば「幼穉色」に彩られる「五星紅旗」を国旗として戴く彼の国は「幼穉」な国であり、「中華民族の偉大な復興」は「中国の夢」ならぬ「幼穉」な夢ということ・・・なんだか納得できるなあ。

 

16日、先月にフランス人に従って安南の海防(ハイホン)まで足を延ばしたものの、日本人には耐えられない劣悪な気候風土に苦しんだ日本人が訪ねてきて語った戦況を、岡は次のように記した。

 

――11日にフランス軍が要衝の諒山(ランソン)を攻撃したところ、安南領内に一兵も残さず「中兵は敗走」してしまった。古くからフランス人は安南侵略に狙いを定めていた。ヨーロッパ人というやつは先ず宣教師を送り込んで布教する。300年以前にスペインはルソンを侵略し、オランダは台湾に拠点を築き、ポルトガルはマカオに足を踏み入れた。彼らの侵略の意図は固く、布教だけに止まるものではない。スペイン、オランダ、ポルトガルの3国の国力は衰えたが、代わってフランスが勃興する。1787年に安南に大乱が起るや出兵し国王を援けたことで、フランスは足掛かりをえた。1860年になると、遂に安南に対し国土の一部の割譲を逼る。その頃、イギリスは香港開港に国力を傾注していたが、目的は精鋭部隊を駐屯させ国威を発揚させ、ヨーロッパ人の東洋に通ずる門戸にしたかったからだ。香港がイギリスに帰したことで、「東洋は一(たちまち)にして大變した」。いま安南がフランス領となるなら、我が国にとっても由々しき事態だ。(2月16日)――《QED》