【知道中国 1324回】                      一五・十一・仲七      ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡65)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

翌(24)日、朝から降り続く「我梅雨候」のような霧雨の中、例の廣瀬がやってきた。そこで先ずはイッパイとなるが、酒が進みにつれ彼は語る。

 

「マカオは長いことポルトガルの植民地でしたが、香港が開港して以来、経済は全く振わなくなってしまいまして、そこで本国の法律に準じて賭博場を開いて税を吸い上げようと目論んだわけです。すると『博徒雲集』して瞬く間に大繁盛。緊張状態が高まるが、広州租界のフランス警察は装備にカネを回せない。そこでマカオに倣って2カ所の賭博場を開設し、その上がりの税金で軍費不足を補おうとしたわけですが、『博徒無頼の游民』なんてヤツラは『家國』を蝕むばかり。公営賭博場からの徴税はマトモなんでしょうか。

 

考えれば、その昔、ポルトガルは強国でしたが、騒乱・戦乱が相次ぎ、国が亡びないだけといったブザマな情況です。そもそも自治といったところで法がなく、マカオのような情況が多いわけですから、マカオの真似をしたところでロクなことはありません」

 

さてマカオの公営賭博場(=カジノ)の思い出を。2つほど。

 

最初は70年代始め。香港生活も1年ほどが過ぎた頃。一つ後学のためにマカオのカジノを体験するのも一興と出掛けた。当時、香港・マカオ間に高速水中翼船が就航していたが、やはり運賃が高額で貧乏留学生には高嶺の花。そこで夜行便の船倉の最下層に横になる。日付が変わる頃の香港のマカオ埠頭を就航した船は、翌早朝にマカオへ。いくらなんでも、こんな早朝から鉄火場で火花を散らしているような酔狂な「博徒無頼の游民」がいるわけがない。加えて夜行便の最下層船室は臭くて汚くて五月蠅くて・・・当然に頻りに眠い。その眠気を覚まそうと、人気のない明け方のマカオの街を歩く。

 

旧正月を挟んだ時期は香港もマカオも寒い。加えて眠い。歩くのも億劫になっていたその時、目の前にエンジンを掛けっぱなしのバスが一台。しかも運転手も車掌もいない。シメタと乗り込むと、車内はホンワカと暖か。ガソリン臭い温かさのなかで暫し爆睡。なぜ、あの時、エンジンを掛けたままのバスが駐車し、貧乏留学生に暫し微睡の時間を与えてくれたのか。いまでも不思議に思うと同時に、その僥倖に深謝するのみ。かくて元気回復し、目的のリスボア・ホテルのカジノに突入だ。

 

マカオ最大のカジノと言うものの、当時は内部は薄暗く、シミッタレた場末感は否めなかった。あの頃のマカオの佇まいからは、ラスベガスを遥かに凌駕する収入・規模・設備を誇るまでに急成長した21世紀の世界最大の賭博都市マカオを想像することは不可能だ。

 

リスボア・ホテルの薄暗いカジノに目が慣れてきたが、なにせ手許不如意。チップを買って賭博に興じるなんて贅沢が許されるわけがない。加えて博打で一山当てて学資と生活費を稼ごうなどという山っ気(射幸心ともいいますが・・・)もない。そこで、あちこちのテーブルで演じられるゲームを専ら参観することとした。人間観察である。とはいえ、やはり他人の勝ち負けなど面白くも可笑しくもないわけだが。

 

しばらく場内をブラブラしていると、異様な緊張感に包まれたテーブルに出くわした。テーブルの上に山と積まれたチップを計算すると、当時の日本円で換算して1000万円前後。目を血走らせた客は40代の日本人。堅気ではない雰囲気。舎弟と思しき3,4人の若者が周りをガードしている。いままさに緊張の極。バニーガールの衣裳を纏った係の女性が切るトランプに目が飛んでいた。そりゃそうだ。次のカードの出方次第で最悪の場合は“大枚”が吹っ飛ぶわけだから。ところが隣のテーブルでは、かの兄貴の手持ちよりは数倍は多いチップを目の前に、60代と思しき厚化粧の香港有閑マダムが悠然と煙草を燻らせながら、である。彼女からは緊張感も高揚感も感じられない。この違いは、何だろう。《QED》