【知道中国 1323回】                      一五・十一・仲五

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡64)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

23日は広州税関の前に山と積まれた輸出入物資を目にして貿易の盛行を実感するが、ここでも和服姿の岡は、蟻集する兵卒に取り囲まれ道を遮られてしまう。やはり中国人は物見高い。かれこれと岡の姿を評定しながら、無駄に時を過ごしたに違いない。であるからこそ「中国人は暇潰しの名人」との林語堂の指摘は至言というべきだ。

 

次に欧米租界に足を向ける。幕末長崎の出島と同じような構造で、1本の橋が現地社会とを結ぶ唯一のルートだが、その橋の上には、これみよがしに銃が並べられている。中国人に対する威嚇だろう。赤い軍服の兵士は座り込み、横になり、あるいはジャレ合ったりで規律がない。どうやら暴徒がフランス人を襲撃し、租界内の建物に火を放ったことから、租界側が防備のために常備兵を置いたとのこと。

 

この日、岡は広東語を学んでいる日本人の廣瀬某から広東語教科書を見せられ、

 

――北京ではイギリス人が編纂した「北京語學書」を目にしたが、「字句文意」はおおよそ理解できる。だが広東語に至っては一般の単語すらチンプンカンプンだ。聞くところでは他省の人が広東にやってきても言葉が通じない。筆談、あるいは英語で辛うじて意思疎通が可能とのこと。官吏は「官話」を話すが、庶民にとって「官話」は理解できない。そんなわけで官吏と庶民とは互いが「異邦人」のようであり、全く以て不便極まりない。(1月23日)――

 

かつて中国には(もちろん岡の時代にも)、全国で通用する共通の言葉はなかった。わずかに「官話」のみが全国で意思疎通が可能であったが、それは役人の世界に限られた話であり、専ら庶民は方言しか話さない。その方言は細分化され、極端な話では県境を越えればチンプンカンプンだった。そこでまたまた香港時代の思い出を。

 

香港で最初に学んだのは新亜書院の大学院組織である新亜研究所。もちろん在籍者の大部分は広東人である。若者だから中国語も話すが、広東語訛がキツクて隔靴掻痒。院生間の共通言語は、やはり広東語。先輩の中に、いつも仲間外れのような存在が1人いた。名前は麦さん。同じ広東省だが台山県出身。親しくなった先輩の1人に「どうして麦さんは仲間外れなのか」と尋ねると、「ヤツの研究は論文を読めば判るが、話す段になると台山語だ。台山方言は独特で、オレ達にはサッパリ判らない」と。はてさて、そういうものかと納得したものだが、ある時、その麦さんが論文審査で優秀との評価を得て、日本政府の奨学金で京都大学の大学院に2年間留学することとなった。

 

そして2年が過ぎる。大論文を仕上げて麦さんは“凱旋”。そこで院生仲間で歓迎の昼飯に。相変わらず麦さんは仲間外れ気味。もちろん京都大学大学院での赫々たる研究成果への嫉妬が混じっていたと思うが。とはいえ麦さんは2年前とは比較にならないくらい快活に振舞う。食事をしながらも話し、笑う。もちろん、お相手は小生のみ。

 

数日後、大学院の廊下ですれ違った先輩から、「おい、お前、いつ台山語を習ったんだ」と声を掛けられた。一瞬、何を言っているのか理解できなかったが、暫くして納得した。あの時、じつは麦さんとは日本語でバカ話をしていた。つまり広東人の先輩には台山語と日本語の区別がつかなかったのだ。日本語も台山語も同じ音に聞こえたに違いない。

 

百数十年も昔の岡の時代ではない。70年代前半の、しかも香港での話である。

 

このように中国においては方言が秘めた、ことに日常会話における影響力は絶対的だったであればこそ全国的な意思疎通を可能にするためには漢字という文字を並べ文章に綴るしかないのだが、厳密にいうなら方言は日本人が目にしたことのないような独特の漢字と文法体系を持つわけだから、なんとも始末に負えない・・・やはり、ヤレヤレ。《QED》