【知道中国 1006】      一三・十二・仲三

 ――「『あんまり無理しなさんなよ』とでも呟きたいところだが・・・」(里見の4)

 「隣邦の今昔」(里見弴 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 北京における「眼目の魯迅祭がすんだあと、――なにぶん大勢の『外賓』も都合がつかぬ、と接伴員の話に」、里見は「では、その間に大同へ行って来よう」と応じた。
「京包線、午後十一時発の『快車』=急行には、ソ連製の真新しい寝台車がついていて、暖房は利かず、毛布一枚とて、少々寒くはあったけれど、清潔が何よりで、安眠できた」そうな。「翌朝、よろけよろけ食堂車」に行った。「二十五年前の乗客とは比べものにならぬ柔和しさ、整頓のよさだった。麺麭とハム・エッグ、うまかろう筈なし」と素っ気ない。

 ここで、25年前に里見の経験した列車風景を再録しておくのも一興か。
 車両について里見は、「これから北京へはいるわけだが、一等車の車体そのものは、東海道線のよりはよっぽど大々としているくらいなのに、例によって掃除の不行届きから、どこもかの埃ッぽくざらついていて、乗り心地から云えば日本の三等車以下だ」

 乗客については、「通路一面、薄汚い支那人が座り込んでいようという有様で、全く足の踏みどもない」が、混雑の中を「背を押し、膝を起させて、纔に片足を容れるに足るだけの床を、次から次へと割り出して」先に進んだ。暫らくすると列車警護の兵士と別の兵士との間で座席争いがはじまり、里見の前に「六尺近い大男の、猛ったのが立ちはだかることになった。口角の泡は、文字通り霧を生じ、雨と変じて降りかかってくる。だんだんに身を退こうとすると、(案内者の)S氏が、二三人おいた彼方から手を振ってみせて、だいじょぶ、だいじょぶ、支那の喧嘩はどんなにひどくなっても、めったに手出しするようなことはないから、と宥めるように云ってくれる。――このうえ側杖をくってたまるもんじゃない」

 当時の食堂車について、「客車のなかには、鉄製の、丈二尺あまりのストオヴがあって、寒さの心配だけは要らないのだが、そのあたりにいくらか身動きの余地が生じた頃から、一人の薄汚い支那人がちょこまかし始めたと思うと、忽ち化して、それは、竈となるのだ。棚の上からの箱からは、鍋が出る、包丁が出る、飯櫃が出る、葱が出る、籜包の肉が出る、卵が出る」。

 正確に言うなら食堂車ではなく、簡易厨房とでも表現すべきだろうが、そこでの料理は、「そこらの支那料理屋で食わせるそれよりも、よっぽどうまそうにみえたくらい」だった。料理人の「そのやり方の簡にして要を得ていることと云ったら、有繋は何千年来、改朝、苛斂、戦禍の間に、骨の髄まで滲み込んで了った簡易生活法体得の国民と肯かれた。――この台所の広さ、竈を含めて半畳に足りず、而もそのうえに、酒を燗し、茶を淹れ、絞り手拭まで雋るのだ。感服せざるを得ないではないか」

「一番驚いたのが俎板で、直径一尺、厚み二三寸の、電信柱の根ッこでも挽ッ切って来たような古材木なのだが、そのい、埃と脂とで鼠色に盛りあがっている表面へ、直角に包丁をあてがって、ガリガリと引ッ掻く度に、垢のようなものが、ぼろぼろとこすれ落ちる。そのあと、真黒に汚れた布巾ででも、一応は拭くかと思うと、包丁の峰を返して、その垢のようなものを、すッ、すッと、四方に掃き飛ばしただけで、すぐそこへ、べたっと豚肉を置いた時には有繋の私も唸らざるを得なかった。葱も無論洗わずに切る。フライ・パンのやや深めに、尻の丸くなった鉄鍋に油を炒って置いて、飯をたたい込み、包丁の先でちょいちょいとつッ突きこわしたり、掻きまぜたりした挙句、二三調子をつけては、ひょーい、ひょーいと擲りあげ、うけとめてはまた擲りあげる手際の鮮やかさ、――むかつきそうな油の臭も忘れて、全くこれには見惚れて了った」

 25年後は柔和・清潔・整頓・・・「麺麭とハム・エッグ」なんて「うまかろう筈なし」《QED》