【知道中国 1318回】                      一五・十一・初五

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡59)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

『觀光紀游』は、たとえば再度の上海滞在部分は「滬上再記」といったように岡が歩いた地域によって分かれている。「滬上再記」を終り、これからは香港・広東方面の旅を綴った「粤南日記」を読み進むこととなるが、冒頭に置かれた濵田源なる岡門人による漢文の「序」を読んでみると、当時の日本における中国観の一端が伺えるようにも思える。

 

岡自身の筆になったわけではなかろうが、門人の主張は師匠たる岡のそれに同じであったはずだ。いわば当時の日本における中国観の一端――少なくとも岡一統のそれが、序に現れていると考えても、強ち間違いではないだろう。そこで「粤南日記」に入る前に、参考までに濵田の序を読んでおくこととする。

 

《「東洋各國」において最も国土が広いのが「漢土(ちゅうごく)」で、それに次ぐのが我が国だ。「朝鮮安南」は大陸の端の隅で自らを守っているが、国は小さく勢いは振わず、「東洋の輕重」を語るには力不足だ。「印度緬甸(ビルマ)暹羅(シャム)」などはイギリスの植民地に甘んじ、あるいはフランスの掣肘を受ける始末であり、最初から話にはならない。であればこそ、「東洋」に在る国の中で「歐人」に抗することができるのは、ただに我が国と「漢土」のみということになる。だから「漢土」が我が国と力を合わせるなら「歐土」に対抗することは可能である一方、背を向けあったら、我国と「漢土」とは共に立ち行かなくなり自立できない。

 

「歐人」は努めて深謀遠慮であり、たとえばロシアは日本に対しては「唐太(カラフト)島」を求める一方、「漢土」に向っては黒龍江沿岸を侵略した。まさに勢いに任せた怒涛のような「東洋」掠奪は防ぎようがない。

 

現下の情況で考えられる方策は、我が国が「漢土」と互いに助け合い、平時には互いに富強を図り、有事の際には相互協力し連合軍を組織して憂いと喜びを共にする。こうすれば、彼らも狡猾さを発揮することもできないし、東洋侵略の「志(やぼう)」を膨らませることもないだろう。

 

だが「漢土」は「東洋大勢」のなんたるかを弁えていない。我が方が琉球を県に組み入れれば「大邦(たいこく)」を蔑ろにするのかと逆恨みして大騒ぎし、我が方が朝鮮の非を問えば属国である朝鮮への容喙は許さないと鼻息荒く息巻く始末だ。双方が猜疑心を募らせ、互いを詰るなら、共に相容れない関係に陥ってしまい、とどのつまりは「歐人」を利するだけでなく、「東洋」にとって計り知れないほどの不利となる。

 

(中略)今回の旅行に際し、岡先生は南遊して香港まで足を延ばし「英佛の跳梁」を目の当たりにし、北は河北省北部まで歩を進め「俄虜(ロスケ)」の他国蚕食の実情を確かめ、上海・福州の諸港を経巡ったのである。「我が東洋」に対する彼らの振る舞いを知るほどに、「悲憤鬱積」を禁じえなかった。かくして「彼土(ちゅうごく)」の士大夫と今後の方策を論じ、やはり実態なき虚勢では西欧勢力の東洋侵攻の轟々たる歩みを防ぐことは出来ないことを指摘したのである。

 

目の前のチッポケな好悪損得で外交を進めたなら、敵に不要な外交シグナルを送ることになり、敵を喜ばせ利するだけであり、本来の大きな目的を失うことは必定だ。「小忿」は呑み込み、「私怨」腹中に押し留め、かくして「東洋百代の利」を目指すべきである。》

 

――以上が濱田の序の要約である。岡や濱田の時代から130年ほどが過ぎた21世紀初頭の現時点に立って改めて濱田の主張を考えてみると、「小忿」と「私怨」が渦巻く相も変わらずの構図としかいいようはない。しかも、それは所謂「歴史問題」という名の“厚化粧”が施され自家中毒気味に拡大するばかりだ。「東洋百代の利」は・・・夢のまた夢。《QED》