【知道中国 1317回】                      一五・十一・初三

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡58)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

トホホといえば4日のこと、である。日本公使館某書記が訪ねてきて話すには、上海在住邦人の半数強が女性で、例外なく「閭(まちかど)に立ちて嚬笑(わらい)を賣る者」。つまり“立ちんぼ”。公使館としてはその賤業を嫌って法律で取り締まろうとするが、なにせ客が外人でもあり取締りは思うに任せない、とか。

 

当時、上海にどれほどの数の日本人が住んでいたのかは不明だが、その半数が女性で大部分が売春婦。しかも外人相手なら、所謂「ラシャメン」ということになるだろう。さて彼女らは、いったい、どこから上海にやって来たのか。天草か熊本か。ここで思い出されるのが稀代の詐話師で知られた女衒の村岡伊平治(慶應3=1867年~昭和18=1943年?)である。彼の自伝を読むと、岡が中国に滞在していた前後の18歳頃の香港渡航を機に、中国各地、シンガポール、カルカッタ、ジャカルタ、ハノイなど各地を転々と流れ歩き様々な職業を転々としながら女衒を生業とするようになったと記されている。岡と若き日の村岡が上海で出くわすことはなかっただろうが、あるいは岡の上海滞在時に「閭に立ちて嚬笑を賣る者」の中には、後に村岡に世話になった女性もいたかもしれない。

 

いよいよ上海を離れることを知って別れの挨拶にやって来た中国人の友人の1人が、朝鮮での事件を熱く語りはじめた。そこで岡は、

 

――いまや「五洲(せかい)」を見れば、電信に遠洋艦船、それに大小の兵器の進歩は著しい。地球は小さくなって、万国は隣り合っているようであり、最早、内外の別はなくなった。往昔のように国が国境を守って平穏に過ごせたような時代は、二度と戻らない。こうなったのも時勢であり天運というものだ。「中土」を見ると、フランスとの関係が国政上の比重を増している。だからといって「豺狼(フランス)」と対峙する道を放棄して「狐兎(ちょうせん)」を弄ぶという「理」はない。固より我が国が他国の危難に乗ずるような「不義」をするわけがない。

 

今回の「變事」は両国政府の意図に基づいて起ったわけではなく、やはり他日、両国が使節を派遣し事態の推移を検証するなら、たちどころに誤解は氷解し、事態は収拾されるだろう。(1月6日)――

 

岡にすれば、フランスの脅威に慄き尻尾を巻いて逃れながら弱小朝鮮を攻撃するような卑怯な振る舞いは考えられないし、ましてや日本が相手の苦境に乗ずるような愚劣な国でないことは当たり前のことだった。だが友人は「そう言われるが、日本が兵器を執って雌雄を決そうとしたからこそ、この戦が起ったのだ」と反論する。岡は時代の趨勢を説いた。

 

――それこそが私の説くところ。いまや国境を守っていさえすれば無事平穏に過ごせることなど望むべくもなくなったのだ。幸運にも私は国を守るべき官位には就いていない。これから福建・広東を数か月掛けて周遊する心算だ。あなたの言われる両国が雌雄を決する戦を目にすることは、やはり愉快なことではない。(1月6日)――

 

かくて「一座大笑」となるのだが、呵呵大笑というより、やはり苦笑いではなかったか。

 

岸田吟香の経営する楽善堂に赴き朝食を摂った7日夕刻、多くの友人知己に送られ南下する船に乗り込んだ。「王侯の居」のような船室で、快適な船旅となりそうだ。

 

岡の乗った「高陞號」の最下層船倉には大小の砲が所狭しと積まれ、甲板には羊100頭と牛6頭が積まれていた。すべてが広東行きとのこと。

 

霜晴れの夜空に満天の星が光り輝く。「貫斗光芒霜照劍。映波燈火夜登舟(霜降る夜空を星の光は剣となって切り裂き、燈火を映しゆらゆら揺れる波のままに揺れる船上に立つ)」と綴る友人の送別の詩に、岡は「能く實景を寫したるものなり」と。香港に向け抜錨。《QED》