【知道中国 1315回】                       一五・十・三十    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡56)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

在上海安藤公使ら邦人50余人が参加した忘年会は「轟飲極歡」とのこと。さぞや大酒を喰らって痛快に騒いだことだろう。

 

翌(28)日、サイゴンからやって来た2人の日本の訪問を受ける。2人が語るところによれば、フランス領サイゴンの港には多くの外国籍船舶が係留され、数多の商人が参集し、まるで戦争などなきが如きだ。フランスは新たに1万2千人規模の軍の増派を決定。1万はヴェトナムでの治安維持に、残りの2千は中国攻撃に振り向けようとしている、と。

 

そこにやって来た天城艦艦長の東郷大佐は、「喧々諤々の議論はあるが、やはり事態の真相を捉えてはいないというものだ。強国たるフランスは台湾の?籠(基隆)を一気に陥落させた後、再度の福州攻撃を企図。戦いは必定。であればこそ、戦艦を台湾近辺の海域に待機させている。もはや局面を打開する策はなさそうだ。我が国力には限度があり、小さな朝鮮が原因となって『中土』を怒らせ、『大禍』を買うことになりかねない。井上参議が外務卿に就任した。天朝の御趣旨は、やはり戦争にはないのだ」と。

 

岡にしても東郷大佐にしても、その発言からして、朝鮮で発生した事態がエスカレートし清国と戦いに発展することを避けるべしとの方向を打ち出していたことになる。

 

30日、日本領事館で目にした新聞で朝鮮での一件の経緯を知った岡は、次のように記した。

 

――今月4日、「韓相閔泳翊」は外国公使と会して逓信局の落成祝賀式典に赴き、たまたま上った火の手を見に出たところで、刺客の襲撃を受けた。「泳翊」は皇后(閔妃)の一族で欧米人を招聘するなど盛んに「進取説」を唱えていた。その後、使節として「中土」に派遣されるや、前言を翻して「守舊説」を唱えるようになった。「進取黨」は彼の変節を憎み、国を誤るとして仲間を糾合して刺したわけだ。すると恐怖に駆られ「韓王」は突然「守舊黨」を退ける。流言飛語が飛び交い人心の動揺は甚だしい。

 

夜に入り、「國王」は手紙を認め、日本兵によって王城を固めることを竹添公使に要請した。そこで公使は守備兵200を投入し守備に就かせた。

 

夜が明けると火の手が上がり、「王」は景佐宮に移られた。だが「守舊黨」では既に「中兵」が進撃しており城門を砲撃した。公使は戦いつつ退却したが、そこここで暴徒が動き出し、日本兵の兵営と公使館に放火するのであった。そこで「在韓邦人」を率いて済物浦まで退却し、大勢を調えた。被害を受けた邦人30余名。「進取黨」の指導者である朴泳孝・金玉均は変装し竹添公使と共に難を逃れた。「進取黨」は「日人」を、「守舊黨」は「中人」を、それぞれ援ける。両党の軋轢が激変して、今回の変事になったわけだ。

 

顧みれば我が国は、米国の強い要請によって開国と攘夷の両派に分れ、勤王となり佐幕となった。「鹿兒島馬關を攘夷と爲す」。かくして前後20年ほどの紛糾の後、やっと「維新廓清の功を奏した」のである。「韓土」における今回の一件も堺町門の変に似たようなもの。「韓土」は多事多端で1年、また1年と激しさを増す。これが時の勢いというものだ。(12月30日)――

 

「堺町門の変」とは文久3(1863)年8月に合津・薩摩など公武合体派によって起こされたクーデターであり、これによって長州藩を中心とする尊王攘夷派が京都から追放されている。「文久の政変」とも「八月十八日の変」とも呼ばれ、この事件を機に尊王攘夷派は政治的影響力を殺がれることとなった。

 

この日の記述では、どこまでが新聞記事の要約で、どこまでが岡の考えかは判然としないが、朝鮮の事態は行き着くところまで行くしかないと判断していたということか。《QED》