【知道中国 1314回】                       一五・十・念八

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡55)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

上海滞在も残り少なくなったが、岡は以前に変わらずに友人との往来を重ねる。とはいえ、すべてが順調というわけではない。12月22日のことだが、ある友人を三度訪ねたが不在だった。首を傾げつつ別の友人宅に立ち寄ると、「彼は役人だから、あなたとの面談の約束をすべきではなかったと思っているのではないか」と。あるいは新聞に掲載された岡の主張が、面談を約束した人物の役所での立場を悪くするとでも慮ったのだろう。そこで岡は「怫然」として綴った。

 

――彼は名家の出身であり、約言の何たるかを弁えていようもの。「中人の輕浮なること、其の言、恃むに足らざること往々にして斯くの如し」。(12月22日)――

 

「中人の輕浮なること、其の言、恃むに足らざること往々にして斯くの如し」とは、余ほど腹に据えかねたに違いない。

 

翌(23)日、欧州より戻った友人の歓迎会に赴く。料亭に繰り込んだところ、客は寝そべって洋烟(アヘン)の煙を燻らしている。そこで、さすがの欧州帰りである。「なぜ止められないのか」と。この欧州帰りは、どうやら日本人のようだ。すると中国の友人が「中国人が止めるのは簡単だが」といいつつ笑いながら「アヘンにどのような害があるというのだ。『酒色』に溺れて死ぬ者もいるが、それは『酒食』が『生』とは較べものにならないほどに『樂』しいからだ。『其れ煙毒に死すに、何ぞ酒色に死すに異ならんや』」と反問する。そう綴った後、岡は「此の言、戯れと雖も一理有り」とした。岡の綴るように友人の屁理屈に「一理」あるかどうかは知らないが、やはり煙毒は21世紀の現在にいたってもなお根治できないばかりか蔓延る一方であるだけに、永遠の宿痾ということだろう。

 

24日の記述には、日本からの電報で、井上参議が外務卿に任じられ高島・樺島の両少将を従え「韓地」に派遣されたことを知る。

 

前日にアヘン吸引を糾弾した欧州帰りの友人が、「我が朝廷の主旨は平和に在り。だから外務卿に命じたのだ。外務卿の職責は善隣友好の保持にあるのだ」と。そこで岡は、

 

――我が国は兵を駐屯させているのは「在韓邦人」を守ることにある。李王が突然の国を閉じたとしても、その行為は認められるべきだ。井上公使は李王の命を重んじ、日本兵を動かし李王を守った。これまた意気を感じる。義に赴いた日本側は「二百精兵」で周囲から攻勢を仕掛ける「千百」の清国兵を敵にし、死んでも退かない。その姿は、日本兵の武勇を内外に高からしめた。敗れたとはいえ、あっぱれな栄誉だ。

 

清国兵はゾロゾロと規律なく進軍し、浮足立った李王の兵に驚き散を乱して「狼狽遁去」する始末。内外の笑いとなっている。清国公使を辱めるものだ。(12月24日)――

我が「二百精兵」に対するにブザマな清国兵。日本人は、朝鮮における戦いで初めて中国人を知ったはずだ。彼らは、日本人が中国渡来の書物で学び盲信(誤解?)しきってきた“孔孟の徒”ではなかったのである。日本人は中国人を買いかぶっていたのだ。「好鉄不当釘、好鉄不当兵」を実感したであろう日本人にとって、中国人は尊敬から嘲笑の対象へと変化していったということだろう。

 

25日は「耶蘇誕辰」、つまりクリスマスである。港に停泊中の大小の洋艦は紅白に飾られ、上海の街からは爆竹の音が聞こえてくる。

 

この日、友人から科挙試験に赴くとの知らせを受け、北京滞在中に知った科挙試験の実態を詳細に綴った後、改めて科挙こそが天下を誤ったと断じた。

 

――古典にみえる数万文字を前後を違えずに遺すところなく暗記しなければならない科挙は、天下国家のために身命を賭すことを妨げるばかりだ。(12月25日)―― 《QED》