【知道中国 1313回】                       一五・十・念六

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡54)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

12月17日、上海に転地療養中の在天津領事を見舞う。酒を酌み交わしながら領事は、「山東省の要衝である烟台以北の海は冬には海氷に覆われ、西洋の帆船や軍艦は烟台や天津に停泊し春待ちをしますが、その間、水夫は街に繰り出し飲酒に賭博に喧嘩の騒ぎ。そこで領事警察で世話になって裁判となるのですが、こういった類は常識知らずで文字も判らない。いくら説諭したところで一向に効き目はない。どうしようもないほどにダメな奴等です。だから『歐米人、好んで日本水夫を雇って曰く。日人は強悍にして風波を畏れず、性命を顧みず、大いに取る可きと爲す』」と語った。

 

当時、すでに欧米人は「強悍にして風波を畏れず、性命を顧みず」に与えられた職務に精勤する日本人水夫の仕事ぶりに注目していたということだろう。だが、「大いに取る可きと爲す」の一節が気になる。使用者の立場からすれば使い易いから使っておくべきだということだろうが、それならそれで舐められた話だ。扱い易いといっていると同じで、喜んでばかりはいられない。(ここ数回、岡の日記の日付を1ヶ月間違えていたようだ。依然として明治18年12月であった)

 

18日、安藤領事を訪ねたが電報1通があるのみで、朝鮮情勢のその後がハッキリしない。その足で本願寺に向うと、岡の姿を認めた某氏から質問を受ける。そこで、

 

――中日両国はともに東洋に位置している。この姿は、欧米人からすれば一家としか見えないはずだ。いま、「中土」は大敵を受けて危急存亡の危機にある。朝鮮のことは「暴徒」の仕業であり、我が方は他人の危機に乗ずることもないし、「中土」もまた「暴徒」を手助けして危機状態を醸成することもないだろう。事態が沈静化した後、双方が使節を派遣し、前後の事情を明らかに検証し事態の推移が明確になるなら、紛争前の平和な情況に復すだろう。(12月18日)――

 

こう書いた後、この日の日記は「衆、皆、善(よし)と稱す」と結ばれている。だが、岡の中国旅行から10年ほど後の明治27(1894)年7月に、日本側は「朝鮮ハ帝國カ其ノ始ニ啓誘シテ列國の伍伴ニ就カシメタル獨立ノ一國タリ而シテ清國ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以て屬邦ト稱シ・・・」と、清国は「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト二百年餘、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ・・・」と共に宣戦の詔勅を掲げて戦端を開くに至った経緯を考えれば、岡の考えを素直に「善(よし)と稱す」るわけにはいきそうにない。

 

とはいえ日清両国間が「回帰不能点」に立ち至った経緯を検証することが拙稿の目的ではないので、この辺で切り上げて岡に戻ることとする。

 

岡の見解は岡の知らないところで中国人の友人の手を経て新聞に掲載されている。そこで岡は、

 

――愚見が新聞で明らかにされると、内外に我が名前が知れ渡った。やはり言説には注意しなければならない。だが無責任な考えを述べた心算はないので、読者は心得ておいてもらいたい。考えれば今回の清国漫遊の旅では清仏戦争を目撃し、今また朝鮮半島に戦の火の手が上がり国を挙げて沸き立っている時に当たっている。そんな危急の期に山河を放浪し、風月を眺めて笑い、詩文に「遲暮の感、鬱積の懷」を遺す日々を送る。

 

「中土の士大夫は余が疎狂(すいきょう)を諒とし、余が紆拙(あほぶり)を愛で、筆を以て舌に代え、歡然と笑謔(わらいとば)す。余の言論を傳え、余の唾餘(つぶやき)を錄し、盃酒(さかずき)を微か逐(かさ)ね、相い視ること莫逆たり。此れ亦異事なり。此れ亦快事なり」(12月19日)――

 

岡の上海滞在も残すところ10日ほど。明治18年も押し詰まって来たようだ。《QED》