【知道中国 1312回】                       一五・十・念四

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡53)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

李氏朝鮮第26代国王で大韓帝国初代皇帝(在位1864年~1907年)に就いた高宗(1852年~1919年)と閔妃(明成皇后/1851年~95年)の2人が、清国の朝貢体制に組み込まれ、極めて限られた国際関係のかなで、西欧列強や日本に対していた。2人は、相次ぐ宮廷内クーデターと内乱、加えるに日清・日露戦争、やがて日韓併合へと続く歴史の奔流に道化振りを発揮しながらも立ち向かうことになる――当時の朝鮮が置かれた情況を、こう簡単に振り返っておこう。

 

高宗即位から10年間は大院君執政期と呼ばれ、最高権力者は高宗の父親である大院君であり、この時代、財政政策の失敗から、国防態勢は脆弱化するばかり。農村の貧窮化が急速に進み、鴨緑江近くの農民は清国やロシアへの越境・逃亡を余儀なくされた。ということは「脱北」は彼らの“民族的伝統”ということになる。

 

妃より格下の貴人である張氏との間に生まれた義親王は宮廷外で育てられただけでなく、高宗お膝元である漢城府に住むことは許されず、日本やアメリカなどの海外を点々とすることを強いられた。どうやら義親王は浪費癖もあったらしく、その点からも高宗には嫌われたようだ。この義親王の境遇は海外に留め置かれた金正日の実弟を、海外留学中の浪費癖が原因で父親から快くは思われていなかった点は若将軍ドノにとっては母親違いの兄君に当る金正男を連想しないわけでもない。

 

1898年、高宗は勅令で自らを「大元帥」と、皇太子を「元帥」と定め、陸海軍の一切を統率しただけでなく、非常事態や出征などの特例を除き、皇太子以外の皇子・皇孫を大将に任ずることが出来ないようにした。まさに腹違いの兄である正男に加え同じ母親から生まれた兄の正哲すら飼い殺し状態に置く北の現状は、権力維持のための伝統的手法ということだろうか。

 

対外関係は、「第一に(宗主国の清国を差し置いて)、自らの密書による秘密外交で西洋列強を引き込もうとすること、そして第二に、その事が露見した場合には、それを直接の交渉に当たった臣下の責に帰すること、第三に、その場合に工作の対象となった列強には最大限配慮するというやり方である」(『高宗・閔妃』木村幹 ミネルヴァ書房 2007年)。

 

金正恩権力掌握以後の対北京外交を考えれば、まさに木村の指摘のまま。加える「密書による秘密外交」は韓国の朴政権の“告げ口外交”を連想させるに十分。かくして金と朴の2人の半島指導者は、こと外交に関しては共に高宗路線の信奉者であり後継者なのか。

 

改めて高宗の治世を振り返ると、やはり国内問題も対外関係も関係なかった。その“超非常識政治”の目的は、なによりも自分と家族とを守ることでしかなかったから。これをいいかえるなら朝令昼改・優柔果断・熟考短慮・終始一貫・自己保身――こう思えて仕方がない。

 

さて岡の友人の見解に戻る。

 

日本と提携した新党勢力に国内の支持が集まったことを「不悦」な「中人」が多くの「不逞」な輩を煽動して今回の事態を起こしたものの、「中兵は規律無く、韓人の厭(きら)う所と爲る。今、また亂黨を助け愈々韓人の望みを失う」。英米各国の公使は混乱を避けようと日本兵に同道して済物浦まで逃れた。だから「中日の曲直は各国公使の之を明らかに知る」と。以上の見解に対し、岡は反論する。

 

――「日人」は「中」の曲(まちがい)だといい、「中人」は「日」の曲だと主張するが、これが「人情」の当然の帰結だ。ただ今回は突発的事態であり、両国政府の意図は見られない。ならば必ずしも「中日交際」に影響を与えることはない。(12月16日)――《QED》