【知道中国 1311回】                       一五・十・念二    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡52)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

これは李氏朝鮮の独立党によって起こされたクーデターで、甲申事変(政変)と呼ばれる。当時、朝鮮に派遣した6000人余の軍隊の持つ軍事的影響力を背景にして、清国は李氏朝鮮(閔氏政権)に対する宗主権強化に努めていた。これに反発する金玉均らを代表とする開化派急進分子が、日本公使である竹添進一郎(『棧雲峽雨日記』の著者)と連携して起こしたクーデターが事件の発端おされる。

 

清国が清仏戦争に翻弄されている機を狙い、1884年12月、ソウル郵便局(逓信局)落成式典に閔氏派要人が参加している隙に日本軍が出動し王宮を占拠し、高宗を擁立して政治の実権を掌握したが、閔氏派に立つ清国が直ちに反撃に転じた。袁世凱率いる清国部隊の攻撃を受けたクーデター部隊は敗退。かくて開明派政権は3日で崩壊し、金玉均ら開明派指導者は日本に亡命することとなった。

 

以上が甲申事変の概容。事件直後の事であり、当時の上海にどの程度の情報が伝わっていたのかは定かではないが、岡は「清仏戦争に加え『韓土』での今回の一件である。『東洋の多事、一に此に至る。意(おも)うに愈々安んぜず』」と記した。

 

そこに友人がやって来て自らが認めた『興亜策五編』を示しながら、「目下の急務策は琉球を渡して日本の協力を取り付け、両国が協力して欧米に当るしかないだろう」と。そこで岡が応える。

 

――「韓地之變」を聞き、一晩中眠れなかった。琉球は「末界微事(ささいなこと)」であろう。今、「中土」は強敵を受けているが、今度は「韓地」で変事が発生したという。これは「弊邦(わがくに)」の失策ではないし、「中土」の計略でもないはずだ。

 

今、「中土」は富強を求める政治を進め欧米と争っているが、安南はあの通りであり、朝鮮は僅かに危機を免れている程度だ。周囲の同文の国を見てみると、「氣力」があるのは僅かに「弊邦」のみ。「弊邦」と「中土」との関係を遡れば、隋唐以来、「文學」を伝え、貿易を通じ千年余り。まさに「唇齒輔車之勢(きってもきれないあいだがら)」だ。

 

朝鮮における一件の真相は不明だが、「中土」が区々たる「微嫌(うたがい)」を積み重ね、「弊邦」がなにか「意圖」を抱いてでもいるかのような疑念を持ってしまい非難がましい言動をすることにこそ、「東洋の多事」の原因があろうというものだ。互いの意図を伝えないから、事態は危険水域に進んでしまう。やはり警戒するべきだ。(1月14日)――

 

岡の主張を今風に言い換えるなら「相互信頼の醸成」、つまり互いの意図を相手に伝えることが安全保障上の要諦ということだろう。

 

翌(15)日、李鴻章の嫡孫の招待宴に出掛けるが、その席で友人の1人が口角泡を飛ばして朝鮮での事態を論じ、「『日人』は我が国が多事多難に苦しんでいる時を好機として、変事を起こした。邪な意図を知るべきだ」と言い放つ。そこで岡は反論する。

 

――「弊邦」は「中土」の軒先に国を立てた。フランスとの一戦での屈辱の報を知って切歯扼腕しない者は1人としていない。「中人」は「臆推揣摩(しまおくそく)」し、「弊邦」に「兇圖」ありと論難する。我が榎本公使は貴国のために苦心を重ね、最新情報を手にしたら直ちに清国政府諸大臣に報告しているではないか。李鴻章閣下は、このことを御存知か。(1月15日)――

 

その翌日、山東省からやって来た日本の友人から朝鮮の情報を聞くと、「『韓人』は新旧両党に分れ、新党は『日』に、旧党は『中』に傾いている。日本側が若干の『償金』を渡したことで国内が日本支持に傾き、新党は勢いを増した。そのことが『中人』にとっては面白くなく、かくて『不逞』の群集を煽動し今回の事態となった」と語り出した。《QED》