【知道中国 1007】 一三・十二・仲五
――「『あんまり無理しなさんなよ』とでも呟きたいところだが・・・」(里見の5)
「隣邦の今昔」(里見弴 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「全旅程を和服で押し通した」とは、なんとも里見らしいのだが、大同の寒さには閉口したはずだ。そこで「白足袋、草履穿きの、足元の冷えを慮って、厚ぼったい百姓靴を買った」うえに、「厚く綿を入れた紺木綿の防寒外套」を借りることにした。
「小型バスで、雲崗という、石窟寺のある村に向う。樹木の稀な丘陵と、水の涸れた渓流とで、四十分ほどのころ道中は退屈」。なんでも「楊某という案内の人が大層熱心にいろいろ説明してくれる」が、「通訳の人が面倒臭がって、いい加減に省略しているらしい」。そんなわけで、「こっちの見たいものには永いことひッかかり、つまらぬものの前はさッさと素通りして了うような我儘勝手も振舞えた」のである。
大きなものから「豆粒ほどのまで入れればおそらく万位にのぼるだろうところの、仏をはじめさまざまな彫刻物のなかで、低徊去り得ず、の感を抱かせられたものは、私としては、いくつと数えきれるほどしかなかった」。なかには「取り除いて貰いたいくらい醜悪」なものがあったという。確かに中国、香港、台湾のみならず東南アジアのチャイナタウンの中国寺院などで見かける薄気味悪いほどにニヤケた顔で、便々たる太鼓腹をさらけ出したような仏像には、有難さも神々しさ微塵も感じられない。あんな俗物然とした仏に手を合わせ、ご加護を祈念する漢族の気が知れない。いや、呆れ果てるほどだ。
醜悪な石仏はともあれ、里見が「足を止めさせられたのは、私の目についた限りに於いてたった一個所、何々県何々郡何々村、陸軍歩兵伍長、なんの某、と、一字一寸劃ほどの、丹念な署名だった。もとより生死は知らないが、なんだかひどく哀な気がした」と記す。「ひどく哀な気がした」のは、お国のためとはいえ、故郷を遥か遠くに離れた大同までやって来た「何々県何々郡何々村、陸軍歩兵伍長、なんの某」に対してか。異国の石窟寺院に「丹念な署名」を残すという誉められたことでもない行為に対してか。将また傷つけられた石窟寺院に対してか。
石仏見学を終えて事務所に立ち寄った際、熱心に揮毫を請われた里見は、「美ノ生命ハ永遠二朽チナイ。然リト雖、窟内ノ像ヲ毀ツモノ将風雨ナルカ。或ハマタ某国ノ暴漢ナルカ。我等忸怩タラザルヲ得ズ。深謝深謝」と記している。
大同旅行の後、遠く四川省まで足を延ばした。
「『無理をしない』の国民性が、もののみごとに実っている一例に出会った。成都から五十五粁の『都江堰』というのへ、格別の期待もなく、一日弁当もちで出かけたのが、存外の拾い物」だったようだ。
都江堰とは、2000年以上の昔の秦の孝文王の時代、地方役人の李冰・二郎の父子が二代で成し遂げた水利事業だが、激流に逆らうことなく、思うが儘に穏やかな流れに変えてしまう「工程や方法の無理のなさに、今度の旅行中第一といっていいほどに愉快にさせられた」と楽し気に記す。
「李父子のあたまのよさ」に頻りに感心した後、「いかに従順温良でも、言語動作、つまり人物全体から滲み出る愚鈍な感じは、はたの意気まで銷沈させる。か、或はまた、私のような短気な者だと、まま腹のたつことさえある。恰度その逆で、いいあたまにぶつかると、急にこっちまで利口になったような気がする」と、柄にもなく神妙だ。
まさに都江堰がそれで、「殆ど亢奮状態にまで私の気分を引き立ててくれた」とのことだが、その訳を、「一つには、悪すぎるあたまに取り捲かれての毎日を過ごしたせいけも知れない」と記した後、「勿論、日本から同行の諸兄は別としてだが」と呟くことを忘れていない。これを“憎まれ口”というのだろうが、里見の気持ちも解らないわけでもない。《QED》