【知道中国 1310回】                       一五・十・廿    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡51)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

戦国四公子とは、孟嘗君・平原君・春申君・信陵君を指し、四賢・四豪とも呼ぶ。賈誼の『過秦論』には「此の時に當り斉に孟嘗有り、趙に平原有り、楚に春申有り、魏に信陵有り、皆智にして忠信、寛厚にして人を愛し、賢を尊んで士を重んず」とある。彼らは天下義侠の賢士を招き、常に数千人の食客を置いていたことで知られる。

 

岡が「四公子を軽んじるなかれ。今の世に四公子がいたとしたら、台湾のみならず福州までも侵されるようなことがあろうはずもなかろうに」と説くと、友人は「西洋人は奢侈で傲慢に過ぎる」と話題を転じて来た。そこで岡は、

 

――「賢を厚く遇し士を周辺に置いておく」ということは、いわば「中土大官」が欧米の賢人で「學術技藝」に優れた者を厚遇で迎え、彼らから優れた点を学び取ることである。かりに彼らが傲慢であったなら、「中人」は自分で学ぶだけだ。いわば自力更生である。「中土大官」は厚遇をもって彼らに対すれば、彼らもまた「禮讓」をもって「中人」に接してくれる。ならば、傲慢がどうのこうのと文句を言うこともなかろうに。

 

東洋との貿易の利権を手にしたことから豊かになり王侯のように振る舞っている彼らには、「東洋士人」が僅かな収入でも汲々として倦まず働くことが判らない。自らの豊かさを衒うことなく誇る。これが彼らの生き方というものだ。(1月11日)――

 

翌日、別の友人がやって来て、時局問題を論じ教育制度整備の緊要性を説く。そこで岡は、

 

――まさに現在の急務であればこそ、地方に「郷校」を創設し実学を教育する一方、陸海軍兵学校を建設し「火器航海諸學(せんそうがく)」を講ずるべきだ。それすら怠っているわけだから、なには差し置いても早急に着手しなければならない。「絶大急務」とは「國是」を一変し、科挙を廃し、文武制度を改革し、「千年の陋習」を徹底して洗い流し、「天下の元氣」を振起させることだ。(1月12日)――

 

これを聞いた友人は「まさに我が言わんとするところと同じです」と。

 

翌(13)日、来訪した友人の話を聞きながら考える。

 

――「中土人(ちゅうごくじん)」は科挙以外に学問はないものと見做している。師匠は師匠で、そういう考えで弟子を教育し、父兄は父兄で、そういう考えで子弟に求める。国の制度として科挙に合格しなければ身を立て名をなす方途がないのだから、そうであったとしても致し方がない。

 

だが、かりに試験問題に操船法・航路図解読法・操艦訓練・陸兵操練・兵要地誌作成・国防・海防などの問題が出題されたら、どう回答するのか。兵書を学ばない限り答案は書けないだろう。これら問題への回答は、すべて洋書からの翻訳書に書かれている。だが、これら学問は科挙試験には役立たない。現在、必要とするものは実学を説く『格物入門』『地理全書』『瀛環志畧』『萬國公法』などだ。西洋を学ぶ洋務が急務であればこそ、実学の習得は1日として疎かにはできない。(1月13日)――

 

翌(14日)、大内義英が来訪し詳細不明だが、1月7日に李氏朝鮮の王宮で日本側駐屯兵と「中兵」の間で戦闘があったらしい、と。要領を得ないので、岡は早速、岸田吟香が経営する書肆兼薬舗の楽善堂に駆けつけた。そこで消息通から告げられたことは、①逓信局の落成を記念し日朝両国官吏が各国公使を招いて開いた宴席に暴徒が乱入し、朝鮮側重臣を刺殺。②李王は王城を守護すべく我が竹添公使に出兵を依頼。③「中兵」と暴徒は既に王城に侵攻しており、日本側が出兵しても防衛不可。④竹添公使は李王に撤兵を告げ、王は王城から脱出――かくて「回帰不能点」に向って、日清関係は歩み始めるのか。《QED》