【知道中国 1309回】                       一五・十・仲八    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡50)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

岡は北京で購入した10数冊の外遊紀行書の中から、次の一節を抜き書きしている。

 

――「英國風習」をみると、人は誠実を守り妄言・虚言を弄ぶことはない。官吏は与えられた任務を達成するまで懸命に努め、手抜きなどはしない。法を守り、抜け駆けはしない。確固とした是非善悪の基準を持ち、利害得失を厳格に弁別する。誠意をもって任務を遂行し、表面だけを装った礼儀正しさで取り繕うことはない。だから謙ることも阿ることもしない。他人との約束は必ず守り、妄言を重ねて違約の責任逃れをするようなことはない。節を曲げ名誉を傷つける者に較べれば、出処進退の基準は誠実であり、己を処するに厳格だ――

 

この抜き書きに続いて、岡は「中土有識の者、固より已にして此言有り」とする。だが前後の文脈からして、岡は「中土有識の者」は口先だけだろう、と言いたかったようだ。

 

ここでお馴染みの林語堂が『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)で挙げている「民族としての中国人の偉大な点」を確認しておくと、

 

「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともできるところにあろう。法律に訴える必要のあるもめごとの九五パーセントは法廷外で解決している。煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークと見なすこともできるのである。葬儀の時、大いに飲み食いし、銅鑼や太鼓で賑やかに打ち鳴らすのは、このことを証明するものであろう。罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対しいささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる。一連の革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる。官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできるのである」

 

外遊紀行書から岡が抜粋した「英國風習」と林語堂が挙げた「民族としての中国人の偉大さ」を比較すれば、両者が真反対であることは明々白々。超自己チューで融通無碍、いいかえれば何でもありの民族なのだ。であればこそ、彼らに「英國風習」を口酸っぱく説き聞かせたところで馬耳東風。馬の耳に念仏。徒労。無意味。骨折り損である。

 

かくて岡は、この日の日記の最後を「郷人は齒(まじ)わらず。古に泥(しば)られること亦甚だし」と結んだ。時勢の変化を弁えず、自己チューに凝り固まった「郷人」、つまり徳のない人と付き合うのは金輪際止めよう、というわけだ。

 

とはいえ岡は「郷人」を排しはするものの、「中土」そのものを否定するわけではなかった。訪ねてきた日本の友人と酒を酌み交わしながら話題が馬に及ぶと、

 

――北京一帯では生き生きと走り回る馬の群を目にした。峻嶮を駆け上り、ともかくも頑丈であり、性質は確かに「東種(にほんのうま)」に勝る点が数多く認められる。「中土氣候風土」は我が国とほぼ同じであり動植物は「我土(わがこくど)」に適している。馬だけにとどまらず「農耕器具藝術」もまた我が方の足りないところを補えばいい。にもかかわらず、昨今の我が国における農政推進者は欧米のみを唯一無二の手本とし、「中土」に目を向けようとはしない。(1月10日)――

 

岡の持つ合理性を感じる。翌日、訪ねて来た友人が「目下、『戦国四公子論』を草しております」と。そこで論旨を尋ねると、「義侠を事(まね)き、天下を乱した」と熱弁を振って四公子を論駁する。そこで岡は、「ならば今の世に戦国四公子のような人物がいたとしたら、清仏戦争に際して、どう対処しただろうか」と問い返した。《QED》