【知道中国 1308回】                       一五・十・仲六    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡49)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

「申報」の説くところでは、要するに清仏戦争はフランスの冒険野郎が雲南からヴェトナムに広がる山塊に描いた野望が発端ということになる。

 

じつはこの山塊は、ヴェトナム中央高原を東の端にして西はインド東北部まで続いていることに注意を向けてもらいたい。J・C・スコット(イェール大学教授)によって「ゾミア」(『ゾミア』みすず書房 2013年)と命名された平均標高が300メートルで250万平方キロの広さを持つこの一帯を、19世紀中葉からイギリスとフランスの両国は中国侵攻への回廊として争った。イギリスはインドから東進し植民地として押さえたビルマ東北部を経て、一方のフランスはヴェトナムからホン川を西方に遡って。共に雲南の省都である昆明を目指したのである。

 

かくして岡は両国の振る舞いに対する清国の対応を評して、

 

――顧みれば、「流丕」は一度や二度の挫折で「大志」を枉げてしまうような人物ではない。フランスもまた彼の如き人物に振り回されるわけではない。だから安南の現況は、彼が画策した程度のことでもたらされたわけはないのだ。

 

仄聞するところでは「中土」は駐英公使の曾紀澤を派遣して、安南は「藩屬地(ぞっこく)」であることを強く申し入れたとか。だがフランスは、安南に関しては「中土」は一切関係なし、と突っ撥ねた。曾には次に切る外交カードがない。フランスは軍艦を連ねて恫喝し、遂に安南国王に強要して、国家の仕組みをフランス式に変えることを誓わせた。抵抗をみせれば一族を根絶やしにし、子孫根絶を謀ったのだ。こういった行為はイギリスがインド全土を手中に収めた方法に倣ったものだ。

 

じつは安南は辺縁の地に在ることに安住し国防を疎かにしてきたがゆえに、フランス人の野望に火を点けてしまったことは、もはや多言を要しないだろう。いまさら「中土」が属国であるかどうかなどという「藩屬之義」を持ち出したところで所詮は無意味だ。

 

やはり「中土」は大国であったがゆえに、周囲の小国は併呑されることを恐れ、先を争って朝貢し「藩屬虛名」を願い自国の「保全」を図ったわけだ。聞くところでは清国初期の朝見の儀には「安南呂宋暹邏以下二十餘國」が四方から馳せ参じたという。だが今や時勢は一変してしまった。力ずくで新疆を併呑したとしても、この有様だ。「藩屬」などを持ち出したところで意味はない。(明治18年1月6日)――

 

岡は最後を「嘆息」と結ぶが、その「嘆息」は何に対して洩らされたものなのか。「今也時勢一變」したことに気づかぬ「中土」に対してか。はたまたアジア侵略の野望を恣にするイギリスやフランスの野蛮極まりない振る舞いに向けてか。それはさておき、清仏戦争の責任の一端が「時勢一變」を弁えないままに太平楽を決め込む「中土」の朝野にあることを、岡は痛感したはずだ。

 

1日置いた1月8日、訪ねて来た友人が「最近、洋書に向って刻苦勉励。寝る間も惜しんで学んでいますが、どうも目が眩むし、気力が萎えて仕方がありません」と。すると岡は、

 

――洋書原典は中年には無理というもの。それより原典に立ち向かう覚悟で訳書を読めば、些かなりとも得られるところがあるはず。「中土」は古くから西洋各国と通好関係を結び、船舶や兵器を頼ってきた。人民は「敏慧」で貿易に長じているものの、士大夫はダメだ。だいいち目が腐っていて、「外事(がいこう)」に心を砕くことがない。北京では多くの外遊紀行書を求めた。そのなかで優れたものと思われる紀行文を記した人物と面談したが、「中土の舊習を泥守し、徒に浮華を尚ぶものを諷するが猶し。(1月8日)――

 

「今也時勢一變」を受け入れない。いや、それを感じない鈍感さに岡は呆れる。《QED》