【知道中国 1307回】                       一五・十・仲三    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡48)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

上海到着から数日後の朝である。今にも雪が舞い降りてきそうなどんよりと曇った空を眺めながら、岡は考えた。

 

――その昔、私はイギリスとフランスは同類のケダモノだと語ったことがある。イギリスがインドを侵略するや、すかさずフランス人は巨大市場が安南(ヴェトナム)が必要だと考え、機に乗じて、イギリスと同じことをしようと画策してきた。フランスは何10年もの間、策を練ったからこそ今日の事態がある。一朝一夕に安南を強奪できたわけではない。

 

一方の「中土」は「藩屬義(ぞっこく)」であることを盾にしてフランスに対抗する一方で、「土人(ヴェトナム人)」を煽動して安南の再興を謀った。清仏戦争に立ち至った原因は、フランスにある――

 

こう綴った後、岡は上海の新聞の「申報」に掲載されたフランスによる安南侵略の歴史を筆録している。当時の中国メディアがフランスによるヴェトナム制圧の真の狙いをどのように考えていたのか。現在の中国がみせる“東南アジアへの進軍”を反対方向から辿るうえで参考になろうかと考えるので、長い文章を適宜要約しながら読み進んでみたい。

 

――フランス人の「流丕」は幼き日に大志を抱き、イギリス人によるスエズ運河開鑿を知り、自分でも試してみようとエジプトに渡ったものの、望みを果たすことはできなかった。そこで気持ちを切り替え、この地上に「漢土(ちゅうごく)」より大きな国はない。一度足を運ぼうかと上海に向うこととなる。

 

その頃、イギリスとフランスの両国は、長江沿い交易港の開放で合意する。「流丕」はイギリス人の「好公」に従って漢口を訪れ、同地が長江の上流に位置し商人の多くが集まり、人口が多いことを知る。そこで同地に留まって言葉と文学を学び、「中土」の兵力・文物・官制・民力・民度などの概略を知り、「中国に遊んだヨーロッパ人は例外なく内陸部に足を踏み入れていない。これでは『中土』の大枠を共に論ずることは出来ない」と語っている。

 

折からフランスは使節を派遣して雲南と広東・広西が接する辺境一帯を探査させようとしたが、「土蕃(ばんぞく)」に阻止され目的を達することが出来ずに帰任した。「流丕」は切歯扼腕し、「雲南東部の流れが安南の紅河(ホン川)だから、船を使って川を遡れば雲南南部に達するはず」と語り、漢口を発ち、湖北から広西・貴州を経て雲南にまで進んだ。その時勃発した「土苗(びょうぞく)」の反乱を一気に鎮圧すべく、総督は立ち上がったものの、糧秣の備えがない。そこで「流丕」は安南での糧秣調達を申し出るが、総督は「土苗」は兇暴極まり、殺人は平気だと注意する。だが「流丕」は敢えて総督の許可を引き出し進発する。総督が付けてくれた護衛兵は役に立たず、最終的には従僕を1人連れただけで山野を歩き回り、ついにホン川の流れを発見した。糧秣調達には失敗したものの、辺境各地の兵要地誌ともいえる『?南圖説』を著わし、フランスに戻った。

 

帰国後、「東洋との通商を興すなら安南を侵すべきだ。雲南からヴェトナムに流れて海に注ぐホン川流域一帯は肥沃である上に鉱物資源を多く産し、「天府」とも呼ぶべき豊饒の地だ。この地を押さえ、雲南と安南の間に商人を通わせ、四方にネットワークを広げるなら、無限の利益を手にすることが出来る。幸いなことに安南は僻遠の地である上に国王は暗愚だ。だから、今こそ大軍を動かせば、労少なくして安南を手中にできる」と訴えた。

 

折から普仏戦争も終戦を迎え、フランスの国力はどん底状態であり、人心は戦争に飽いていた。そこで「流丕」は、「安南攻略は民間有志で十分」と主張し、ついには友人と船一艘を購入し、90人の義勇兵を募ってホン川に沿ってハノイ急襲に成功する――

 

アンリ・リビエール(「流丕」)の冒険物語こそ、清仏戦争の発端というわけだ。《QED》