【知道中国 1306回】                       一五・十・仲一    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡47)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

相手がどう考えていたかは不明だが、「義に實(まこと)の師弟なり」と綴っていることからして、岡は李鴻章とは師と弟子の関係と見做していたということになる。さて、どちらが師で、どちらが弟子だったのか。李鴻章の生まれは岡より10年早い1823年。一方は黄昏の清朝にあって外交を担い、清朝立て直しに1人気を吐いた人物。一方は無位無官。ならば李鴻章が師匠で岡が弟子というのが常識というところか。岡は「國事は方(まさ)に急。義は之を去るべからず」と続ける。

 

岡を載せた豊順号は激浪の海に激しく揺れる。船酔いを覚え、箸も動かない。船酔いの苦しみから逃れるため、やはり中国人は「洋烟(アヘン)」となる。「臭氣紛然。不可勝」というから、さぞや臭かったことだろう。そんななか、ふと知り合った広東人が「ヴェトナムでの戦は甚だ慌ただしく過ぎているが、我が海軍の操練には手頃といったところ」と。そこで岡は、「『中人』は昔から『大言(おおぼらのへらずぐち)』を好むものだ」と苦笑気味。これだから「中人」は始末に負えない、といったところだろう。イヤハヤ。

 

翌(29)日の気候は寒風から些かの温風に。南下を続ける船は、どうやら南方気候圏内に入ったようだ。

 

その翌(30)日、またまた例の広東人が現れ日本についてとやかく口を挟む。その内容な如何にも気に障る。ハッキリ言って、ムカつくわけだ。そこで「『中土士人(おくにのつわもの)』は従来から夜郎自大で『域外(かいがい)』に目を向けようとしないから、料簡が狭いのです。これでは『大國人』とは申せませんな」と応えた。すると「『遠游(かいがいしさつ)』は無益」と。そこで岡が混ぜっ返す。

 

――孔子の学では殊に礼と楽を重んじます。かりに孔子が異国の周に老子を訪ね学ばなかったら礼を知ることはなかったし、斉に足を運んで韶を聞くことがなかったら楽を知らなかったはず。孔子の弟子たちも故国を離れ、孔子の許に遊学しなかったら、孔子の大きな教えを聞くことはなかったでしょう。これでも「遠游は無益」とでも言われるのか――

 

「坐人大笑」というから、この遣り取りを聞いていた周囲からは、さぞや爆笑が起ったことだろう。さて広東人は口を噤んでそそくさと消え去っただろうか。中国人のことである。おそらく「日本仔係蒙査査(日本のあほたれ、頭、とってもとってもコンクリートのことあるよ~)」などと憎まれ口を叩いたと思いたいのだが・・・。

 

荒波も静まる頃になると、いよいよ「海水昏濁」。上海を貫く長江の流れに近づく。上海着は12月2日。5日前に香港から台湾を巡って来た日本人から、「清国軍は東海岸の?籠から3、4里のところに堡塁を築きフランス兵と対峙している。台湾海峡に臨む要衝の淡水はフランス側が完全制圧したというわけではないものの港口は押さえているから、軍艦以外は港に入っていくわけにはいかない」と、清仏戦争の現状を聞いている。

 

その後、岸田吟香を訪ねると、明日は日本に立つとのこと。「方(まさ)に學校を興し、以て邦人游學する者を待つを謀らん」というのだ。この学校こそ、岸田が陸軍参謀本部の荒尾精らと共に明治23(1890)年に上海に設立し、後の東亜同文書院に発展する日清貿易研究所に当るに違いない。

 

久々の上海を、「舊犬は我が歸るを喜び低徊し衣裾に入り、隣舎は我が歸るを喜び酒を沽(か)い胡盧を携え、城郭は我が歸るを喜び賓客は村墟(むら)に隘れ、大官は我が歸るを喜び騎を遣わし須(もとめ)る所を問う」との杜甫の詩を引きながら、「殆ど余の實況を詠うもの」とはいう。だが「唯、余は三たび此の地に住まうも未だ一として官に在る者の來訪に見えず」と綴っている。役人とは肌が合わないのか。役人が岡を避けたのか。《QED》