【知道中国 1305回】                       一五・十・初九    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡46)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

李鴻章を評して「五年の後を待たん」と岡が記したのは日清戦争勃発10年前の明治17(1884)年。開戦から馬関条約締結までの間、日本との交渉を取り仕切ったのが李鴻章だったことを思えば、「五年の後」の2倍の10年にはなったものの、当時の「中土」にはやはり李鴻章しかいなかった。であればこそ、昨今の中国における李鴻章再評価の動きも頷ける。これを「実事求是(ただしくすなおなみかた)」というのだろうか。

 

天津で残された日々は少ない。早速、世話になった友人に別離の手紙を綴る。

 

――「中土」には自強を主張しない者はいない。自強の本来は自治にこそある。聖人は自治の本然を「格致」といい「正誠」と説いた。今般、「中土」を旅したが、「格致の學」を説く者に1人として出会うことはなかった。また1人として「正誠の教」を持つ者にお目にかかることはなかった。そんなことはないかも知れないが、少なくとも私が接した限りでは、そういう人物はいなかった。かくも自治を疎かにして自強の成果を求めようなどは、全く以て笑止千万。これでは、渇望したところで得られる訳がないだろうに。私が去った後、中堂公(李鴻章)からご下問があったなら、ここに記した我が説をお伝え願いたい。(11月26日)――

 

同じ内容の挨拶文を、天津を管轄する周道台にも認めた。

 

「格致」といい「正誠」といい、なにやら朱子学の神髄のような観念だが、敢えて「格致(どうり)」「正誠(まごころ)」と読み替えることは出来ないだろうか。道理も真心もない。あるのは急場凌ぎの利害打算であり、自己満足であり、喧々諤々の口から出まかせ。立身出世であり、「昇官発財」、つまり官途に就いてのカネ儲け。これでは堕ち行くばかりで、とうに先は見えている。勇ましくも高らかに自強を口にする者は多いが、自治の本然を極めようという者は見当たりそうにない。この期に及んでも“死に学問”とは、呆れ果てて、開いた口が塞がらない。懸命に防備を固め、道理を極め真心を尽くし、右顧左眄することなく、軽佻浮薄に奔らず、確固とした自らを築くこと。これこそが「格致」であり「正誠」であり、「自強」であり「自治」というものだ――これが、岡の言いたかったことではなかっただろうか。

 

翌日(27日)、「早起」して別の友人を訪ねるが、まだ寝ていた。そこで今日の出立を告げる。すると「急遽出見」した友人が「新たに繁職(ようしょく)を解雇された」と口にした後、「貴国は『法虜』と取引して、この機に乗じて台湾を略取しようとしているのでは」と問い質す。そこで岡は

 

――「中人」の猜疑心は極まった。常軌を逸しているというものだ。たとえるなら「中土」は奥部屋で日本は玄関だ。奥の部屋と玄関とがあって、一つの家だろう。「日東」は「中土」の廡の下に国を建てて2000年。所謂「輔車、相(たがい)に依(たよ)る」の関係というのに、この機に乗じて狡猾に奔り目先の利益を求めるわけがない。いまや安南はフランスの手に落ちた。朝鮮は気息奄々として滅亡は免れそうにない。

 

「中土」にとっての「同文の隣国」のなかで「氣力」を有するは僅かに「日東」だけだ。「中土」が何事かを為さんとして共に謀ることができるのは、やはり「日東」のみ。琉球は末界微事(ちいさいこと)だ。小事に拘って大きな好を失ってもいいのか。

 

戦というものは「危事」だ。膿汁を絞り、ありとあらゆる策を事前に講じ、いざ国論を決した後は一切の動揺を見せてはならない――

 

岡の乗る豊順号は凛然たる風のなか天津を離れ、冰の混じった白河の流れを下る。河口に到着したのは夜半。両岸の砲台は、来着時より固められている。戦は近い・・・のか。《QED》