【知道中国 1303回】                       一五・十・初五    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡44)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

岡は旅の道すがら目にした農民の印象を男女共に農耕に励み、慎ましく純朴で誰もが分を守り外の世界に憧れるようなことはないと綴り、「游惰」な南方人とは違うとする。どうやら岡は「游惰」な南方人に対し、北方人を「樸素」と感得したようだ。

 

当時の「中土」の貨幣制度は乱七八糟(ハチャメチャ)で、たとえば先に挙げたアメリカ人宣教師のA・H・スミスが「数行の文章では足りず、論説文どころか本一冊の説明を要するだろう。その混沌とした常軌を逸した制度」(『中国人的性格』中公叢書 2015年)とまで形容するほどだった。その貨幣制度について、岡は「中土に貨幣無し」とし、

 

――売買には銀を削って使う。削られた銀を「錠」といったり「兩」と読んだり、或いは「幾分幾毛」といい、ともかくも煩雑極まりない。大小二種類の「錢」があって「吊」とも「文」とも「貫」とも呼ぶ。かくて「小民は外人の無知に乘じて專ら欺罔を爲す。大いに憎む可しと爲す」。北京では紙幣が見られるが、銀壯(私営金融機関)が発行するもので適当に「符號」が記されているだけで、「児戯(おもちゃ)」のようなもの。だから外国貿易港やその近傍では「洋銀(ぎんか)」が使われている――

 

全国一律の貨幣制度がないわけだから、やはり国家としての体をなしてはいないということになる。全国一律の貨幣制度を施行できないということは、中央政府を僭称しているに過ぎない。つまりは中央政府の権威も権力もなく、地方は中央政府を信用していないから地方独自の貨幣制度を設ける。ある地方は他の地方を信用していないから、たとえ省境を共にしていても、他省の貨幣制度は用いない。というわけで近代的な意味での国家であろうわけがなく、中央政府は名前だけで本来の役割を果たしていない。羊頭狗肉で名存実亡。ならば国民経済も成り立たず、他国がマトモに相手にする訳がないのも頷ける。

 

天津滞在中の某日、友人の息子が訪ねて来た。礼節を弁えた対応で好感を持った。話が時事問題に及んだところで、自説である「自強自治」を説いて聞かせる。

 

――我が日本は小国だから、当然のように「中土」の参考にはならないだろうが、じつは我が国が今日の「小康」を享受している訳は、大いに西洋の学問を取り入れ、ものごとの大小にかかわらず彼らの制度を斟酌して取り入れ、千年の陋弊をキレイさっぱりと洗い流したからだ。思うに「中土」は「二百年の太平」をのんべんだらりと受け継いだ結果、あそこにもここにも弊害が出てしまっている。まさに我が幕末の末世と同じだ。たとえるなら温湿布やら効能薄い薬で重病人を治癒することが出来ないと同じ。この国は行き当たりばったりの小手先の治療は止め、やはり敢然として大手術を敢行するしかない――

 

相手は様々に反論してきたが、最終的には岡の説を受け入れる。そこで、「我が主張を以て説き伏せようと画策したが、肝心の李鴻章が多忙だそうで願いが果たせない。そこでものは相談だが、君は李鴻章の幕下で働いているそうだから、我が説を彼に伝えてくれないか」、と依頼する。すると「私は新参者ですから、このような「大論」を説けるような立場にはありません」と。彼は直に李鴻章に話ができる立場になかったのか。それとも岡の申し出を婉曲に断ったのか。いずれかは不明だが、崩れ逝く「中土」を挽回できる指導者は李鴻章以外には考えられなかったということだろう。あるいは、これが岡のみならず当時の日本知識人の中国と李鴻章に対する一般的な見方だったのかもしれない。

 

この日、山海関から清朝歴代皇帝廟を祀る東陵を廻った日本人がやって来て、「天津郊外の河口の守備兵が『兇徒(ごうとう)』と手を組んで旅の商人から金品を強奪し、人民を苦しめている。『盗を以て防兵と爲す。何ぞ盗を防がん』」と語る。これでは国の守りは出来ないし、人民の不安は増すばかり・・・「盗」と「兵」がグルで、「盗」=「兵」だから。《QED》