【知道中国 1302回】                       一五・十・初三    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡43)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

翌日(11月18日)、昨日の10数人のうちの1人がやって来て、「先生の教えに衝撃を受け、昨夜は一晩中、眠ることができませんでした。科挙のための学問の虚しさと共に我が愚昧を実感した次第です」といった趣旨の発言をする。そこで岡は進んで自らの考えを開陳した。岡の主張(漢文)を忠実に読み下してみると、

 

――三代においては禮・樂・射・御・書・數の六藝を以て八歳の童蒙に課し、以て其の才を達せしめ、其の俊秀を國學に登らせ、之に格致の學を授け、以て實器と成し、之に正誠の方を教え、以て其の實徳を成さしめ、其の行徳の立成するを待つ。而る後に任じて大夫と爲し、責するに家國の大用を以てす。三代の學、豈に近世學者の百事を擲って訓詁帖括の如き有らんか。

 

今、歐米各國、大・中・小の學を設く。六歳で小學に入り、算數・書畫・歷史・天文地理の大畧を授け、成童は中學に入らしめ淺近より而て深遠に、大綱自り而て細目に、秩然にして序有り。一に成立を期し、其れ中學教科の終るを待ち始めて大學に入らしめ、専門一科の學を講究し、其の學ぶ所を以て之を家國事業と凡そ百の工藝に施す。彼は駸駸にして日に高明に進み、遂に九萬里の波濤を踰え、巨艦大砲は東洋各國を威壓し、富強を以て雄を五洲に稱える。要は皆く格致誠正自り而て國を治め天下を平らかにするに及ぶ者なり。

 

而して中人は彼の強勢の此こに源するを知らず、徒に謂うに彼の權詐は兵威を衒かし、萬國を恫喝す、と。此れ、未だ彼を知るを爲さざるや。

 

我が邦先輩鹽谷宕陰先生、六藝論を著し曰く。三代聖人の學は中土に亡く而て歐米に存すは、是なり――

 

漢文を日本式に読み下し、声を挙げて読むと実に小気味がいい。語感が五感のうちの殊に脳幹を刺激する。判らなくても判ったように思わせるが、先ずは読書百遍、意、自ずから通ず、といったところか。

 

そこで岡の主張である。要するに「中土の儒流」が理想の社会と信じ込み讃仰して止まない三代(夏・殷・周)の学問である「六藝」は国家の命運を左右する実用の学問だ。だが時の流れの中で本来の意義は失われ、時代が下るに従って重箱の隅を詮索する「訓詁」の学か、さもなくば科挙の答案練習ともいえる「帖括」の習得に堕してしまった。一方、西洋では小・中・大と教育体系を確立させ、着実に実学を体得したからこそ、世界に覇を唱えるに至ったのだ。そこにこそ欧州強勢の源がある。軍事力で他国を恫喝しているだけではないことに真に思いを致すべきだ。現状を考えるなら、国家運営に資するための「三代聖人の學」は中国では失われ、欧米で行われている――こう言いたかったに違いない。

 

岡の教えに感激した若者は、以後の手紙による教えを乞うている。もちろん岡は「大いに嘉と爲す可し」とした。

 

白河を帆走して、岡の乗った船は天津に到着する。船上から川岸で行われている銃砲隊の操練が見えた。李鴻章麾下の軍隊で中国一を誇っているようだとした後、岡は綴る。

 

――欧米の兵制を採用するなら、先ずは海軍と陸軍の兵学校を創立し、西洋人を招聘し、一切の「韜畧(へいほう)」を学ぶべきだ。たんに欧米の「進退歩武(おいちに・おいちに)」を学び、国内最強を誇っても、結局は欧米と戦端を交えることなどできはしない――

 

「中土」の夜郎自大振りを多面から批判する岡田だが、天津から北京・居庸関・保定を経て天津に戻る「往復七八百里」を振り返り、「土性は肥沃に而て小民は概ね皆粗笨愚魯なり。一に文字を知る者なし」と。だが「唯男女は皆盡く耕作に力め、儉陋樸素、各おの其の分を守る」と綴ることを忘れてはいない。農民は「粗笨愚魯」で「儉陋樸素」。《QED》