【知道中国 1008】    一三・十二・仲七

 ――「『あんまり無理しなさんなよ』とでも呟きたいところだが・・・」(里見の6)

 「隣邦の今昔」(里見弴 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 里見は、李冰・二郎の父と息子とに余ほど感心したとみえる。「残念なのは、土木工事に関する智識皆無」と断りながらも、都江堰工事の巧みさを筆を尽くして説明した後、「『二王殿』の扁額などを掲げた、山腹に幾層にも連なる可なり宏大な廟に、あまり結構とはいえない木像となって祭られている」父と子に、「一遍でもいいから会って話してみたい」とできもしない希望を告白するが、その気持ちは「毛首席や周総理よりも遥かに上だ」とまで言い切った。どうやら里見の眼中には、毛沢東も周恩来もないらしい。(「毛首席」は原文のまま)

 かくして「古来シナは、文学、美術、工芸の各分野に亘ってたくさん立派な人たちを出しているが、こんな所で、これほどあたまのいい土木の親方にめぐり会おうとは全く意外だった」と頻りに感心した後、「なんと言ってもえらい国に違いない」と筆を進める。

 里見が記している「えらい国」というのは、本当に「えらい国」なのか。逆説的表現でいう「えらい国」なのか。
 ともあれ、都江堰のみならず、「古い都の落ち着いた静けさの遺っている成都での2日間」に、里見は満足した。そこで旅行中、頻りに聞かされる「解放前」の3文字に些かの薀蓄を傾けてみせた。

 「今の中国では、ほんの五六分の会話中にも、この『解放』が出ないことは稀だ」。だが考えてみれば「明治初葉なら、『御一新以前』とか、『あと』とか、『以来』とかが、ふた言目には使われただろうし、第一次大戦後の欧州でも、『戦前』『戦後』は流行語になったらしく、これらは大変動の当時に生きる人々の、いやでも口にしずにはいられない必要語だから」と断った後、「他国人のわれわれの身に『解放』が少少こうるさく響くにしても、別だん文句をつける理由はない」と、柄にもなく“理解”を示す。(なお、「流行語」には「はやりことば」、「理由」には「いわれ」とルビが振ってある)

 たしかに里見のいう通り、彼が招待されて訪中したのは共産党独裁国家成立数年後という「大変動の当時」であり、であればこそ「解放前」の3文字は「いやでも口にしずにはいられない必要語」といっていいだろう。だが、当時の中国における「解放前」の3文字は、単に時代を限る表現ではなかった。であればこそ「少少こうるさく響くにしても」、いや「少少こうるさく響く」からこそ、「他国人のわれわれの身」であったなら、その意味を深く考えるべきだったと強くいっておきたい。やはり心此処に在らざれば、である。

 実は毛沢東率いる共産党政権は建国と同時に国境を閉じ、国民の国内外での自由な移動を禁止してしまった。いわば国民が同時代の他国や他の社会と自らを比較する機会を奪った後、「憶苦」という考え方を強制した。「苦」しかった「解放前」の記憶を常に思い起こせば、「解放後」の今という時代が如何に幸せであるかという思いを国民の脳髄に深く刻み付けようとしたのである。同じく漢字3文字ながら、「解放前」は悲惨・屈辱・極貧・暗黒・恐怖と同義であり、「解放後」は栄光・雪辱・豊穣・光明・安堵の別の表現だった。

 中国人にとって悲惨・屈辱・極貧・暗黒・恐怖の元凶であった封建地主と外国帝国主義から中国を「解放」し、栄光・雪辱・豊穣・光明・安堵の新中国を導いたのは毛沢東率いる共産党である。共産党政権なかりせば中国は解放されず、依然として中国人は途端の苦しみの中に喘ぐしかなく、毛沢東の領導があればこそ穏やかで満ち足りた現在の生活が送れる。だから毛沢東と共産党のために獅子奮迅の働きをせよ――偽りのロジックだ。

 「解放前」の3文字は、「解放」の「前」は地獄で、「後」は天国だと思い込ませようとする洗脳用語だったのだ。そのことに、はて、里見は気づいていたのだろうか。《QED》