【知道中国 1300回】                       一五・九・念九    ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡41)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

11月5日の日記には、当時の北京で10数人の西洋人が西洋の書籍の翻訳に当たり、『萬國公法』『格物入門』『化學指南』『法國律例』『星?指掌』『公法便覽』『富國策』『英文擧隅』『俄國史畧』『各國史畧』『格物測算』『公法會通』『算學課藝』などが出版されていたことが、翌日(6日)には同治元年(1861年から62年)に設立され、「英法普俄四國之學」を8年課程で教育する同文館の概容について記されている。

 

同治元年は高杉晋作らが上海を「徘徊」し、またイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどが北京条約を根拠に北京に公使館を開設した年でもある。つまり清国との国交がなかった日本とは違い、欧米列強は正式な外交関係を結び、中国への拠点を着々と築いていたということになる。ここでも日本は後発だったのだ。

 

閑話休題。

 

この頃から、岡は中国人の対応に不満を漏らすようになる。それというのも、面談希望を相手が避ける様子がみられるようになったからだ。じつは岡は「中土」への来遊以前に友人宛に手紙を出していたが、何人かからはナシのつぶて。北京到着後に来意を告げるも、またしても返事がない。かくて、他の知己に次のように伝えた。

 

――「中土」では礼を貴び、礼においては交際を重んずるはずだが、来意を告げても返答すらしない者もいる。ということは、「中土」では既に礼が久しく行われてはいないということか。日本人が「中人」と接する場合、礼を十二分に弁えている心算だが、「中人」が我が日本人と会見するは身の汚れとでも考えているのか。小国が大国に交際を求めるとは、大国が小国に対するとは、こういったことなのか(11月10日)――

 

最初のうちは「我が国でも維新前は欧米人を忌避したいたと同じだろう」などと余裕を見せていたものの、さすがに腹に据えかねたらしい。憤懣やるかたない岡の心情が伝わって来るようだが、岡の弁を聞いた知己は、「黙然」としたままだった。そこで「こんな『狂言』を吐く心算はなかったのですが、あなたから問われたからこそ、敢えて思うが儘を述べたまでです」と。すると先方は岡の著書の素晴らしさを讃え、自らの蔵書から何冊かを取り出し岡に与え「これにて遠方からお訪ね戴いた『厚意』に謝します」と。かくて岡は、「中土の人、既にして皆、浮夸(おおげさ)なり。信義無し」と断言した。

 

11月12日、北京を離れ西南に位置する保定を経て天津に戻る旅に出立する。市街地というのに道路中央は凹状に深く抉れ溝になっている。「深泥尺餘」で馬は泥に足を取られ、両輪は泥に没し馬車は暴風吹き荒ぶ激浪に翻弄される船のように上下左右前後に揺れ、生きた心地がしない。雨が降らなくてもこれだから、大雨にでも遇ったらどうなることか。

 

――中土旅行極難。道路凹凸。驛舎隘陋。寝食器具。一切携帶。已投旅店。僕吹火炊飯。不具湯沫。不設被蓐――

 

かくて「倦めば茶店で一服し、疲れたら馬車を雇うことのできる我が国の旅とは雲泥の差だ」と洩らす。ともかくも酷い情況だったことが十分に伝わって来る。旅先でも来訪者に律儀に応対する。その人が、「日東(にほん)」は古い国なのに何故に「歐服」を着ているのかと。そこで岡は日本でも服装について朝廷内に異論が続出したが、利便を考慮した明治天皇の一声で「斷然として改制」されたと語った後、「『中人』は自らの『衣冠文物』を誇ってはいるが、よくよく考えれば現在の服装は『滿服』であり、制度は『滿制』ではないか。本来の『衣冠文物は亡くなり已して久し』」と応えた。

 

日本の服制に疑義を呈すが、漢民族を征服した清朝、つまり異民族の服装や制度を誇る。異民族に征服されたことを自慢していると同じではないかと、岡は疑問を呈す。《QED》