【知道中国 1296回】                       一五・九・念一

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡37)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

日本の「沿革」について曖昧模糊とした知識しかないということは日本を知らないことであり、それは「中土」にとって決して「得」なことではない。この岡の考えは、確かに正しい。だが、岡の時代から現在にまでつながる日本の対中政策を振り返った時、果たして日本は――岡の表現を借りるなら、「中土の沿革」に「矇然(ピンボケ)」ではなかったか。

 

かくして勝海舟が「日本人もあまり戰爭に勝つたなどと威張つて居ると、後で大變な目にあふヨ。劍や鐵砲の戰爭には勝つても、經濟上の戰爭に負けると、國は仕方なくなるヨ。そして、この經濟上の戰爭にかけたは、日本人は、とても支那人には及ばないと思ふと、おれはひそかに心配するヨ」(『氷川清話』講談社学術文庫)と言い、宮崎滔天が「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、此熱帯国(=シャム)にて、急がず、噪がず、子ツリ子ツリ遣て除ける支那人の気根には中々及ぶ可からず」(『宮崎滔天全集(第五巻)』平凡社)と綴っていたことを記しておく。

 

20日から、徳正門、明代創建になる古刹の西山・覚生寺、さらには清朝歴代皇帝にまつわる豪壮な建造物を見て回る。

 

――どの建物も、「天下の力」を一身に集め天下を思うが儘に動かす王者の威風を示し、まさしく壮麗を万邦に示したことを偲ばせる。だが現実には、西欧列強に「蹂躙」され国土は焦土と化し、風雨に曝されるばかりで、ムササビやら蛇の巣に成り果てている。嘆かわしい限りだ。歴代皇帝が立ち寄られた場所も、「醜虜(いてき)」に「蹂躙」されてしまった。「宗社玷辱(てんかのくつじょく)」であり、耐えられるものではない。雑草を生い茂らせたままにおくことは、臣下本来の務めを怠っているということか。だが、考えようによっては、無残な姿をその儘にうち捨てておくことで、「人心を勵(はげま)し、義憤を鼓すの資(もと)となる」のかもしれない――

 

数日を費やし、岡は清朝皇帝・皇后にゆかりの建物やら庭園をを参観し、さらに足を郊外に伸ばす。

 

ある茶店で一休み。すると店主は岡が日本人であることを知り、「日本、中土と協力し大いに『洋虜(いてき)』に克つ」と喜んでみせた。どうやらヴェトナムでフランスと戦った劉永福を日本人だと勘違いしているらしい。そこで岡は、「鄙野の人、聵聵(むち)にして多くは此の類なり」と。

 

北郊で八旗兵の操練の模様を参観したが、余りにも旧態依然で進歩がない。これで西欧の軍隊と一戦を交えようというのだから、「無如之何也(もう、どうしようもない)」。

 

10月30日、訪ねて来た友人に日本における官吏任用制度を訊かれ、江戸時代は禄を与えられた武士が「有事ならば兵、無事ならば官」を務めていたが、明治維新以降は「此の制を廢し、歐米に仿い各科學校を興し」、成績優秀者を採用していると応えた後、清末の思想家で富国強兵を熱く説いた魏源(1796年~1856年)を援用し、科挙の弊害に話を進めた。

 

――「兵(いくさ)は専門事業」であり、軽率に扱えるものではない。だが科挙試験の成績優秀者に当たらせるから、「筆舌を弄び時事を論じ、遂に兵權を握る」ことになってしまう。「兵」を「筆墨口舌」の徒に委ねるや、「一旦、變起これば」、彼らは「衆に先んじて遁去(にげさ)る」。「固より其れ當然なり」。だから目下の急務は旧弊・前例を捨て專ら国家朝廷の制度を再考し、「國故(こくなん)」を討つことだ。危機を克服するためには科挙を捨て、「歐米に仿い各科學術を興すあるのみ」――

 

科挙廃止は20年ほどが過ぎた1905年。その6年後の1911年、清朝は崩壊。《QED》