【知道中国 1293回】                       一五・九・仲二

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡34)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

近代的高等教育機関、近代的設備を持つ総合病院などの公共施設の建設・運営を中心に、アメリカは宣教師を通じて「被保護者としての中国」に多大の援助を続けた。さらにアメリカに招き寄せられた中国の若者はアメリカ式近代教育で教導された後に帰国し、社会の枢要な地位に就いた。極論するなら彼らは中国語を話す米式中国人なのだ。アメリカ人宣教師は、その後の米中関係を考えるうえで欠くべからざる役割を果たしたのだ。

 

岡は在中四半世紀のアメリカ人宣教師の働きを、「同文館を開き、洋書を譯し、歐書を授く」とし、イエズス会会員のイタリア人司祭で明王朝に仕えヨーロッパの最新技術を伝え、ヨーロッパに中国文化を紹介したマテオ・リッチ(1552年~1610年)以来絶えて久しいことだ、と綴る。

 

アメリカ人宣教師の許を辞し、官吏監督を担当する御史で厳格な取り締まりで知られた鄧鉄香を訪ねる。早速、酒宴。そこで鄧が「『法虜(ふらんすやろう)』が辺境を乱している。貴国が『唇齒の義』を重んじ中国に協力してくれるなら、フランスは四方から大敵を受けることになり、兵力を殺ぐことができるはずだ」と誘う。「唇齒の義」、今風に言い換えるなら日中友好といったところだろうが、自分の都合のいい時だけ持ち出す身勝手さは、どうやら昔も今も同じということか。戦後の日本は、毛沢東以下の北京指導者が口にする「唇齒の義」の詐術に眩惑され続けてきたわけだが、岡が現代に蘇えったなら、毛沢東ら北京指導部が持ち出す「唇齒の義」に冷水をぶっかけたに違いない。

 

――「唇齒の義」というものを20年前に考え、国際情勢激変の歴史を調べ、国と国とが互いに持ち合せていないものを融通し合うことによって『萬國の道義』を形作るということを初めて知った。まるで酔夢から覚めてハッと我に返り、暖かい春風が厳氷を解かしてしまうようだった。思い返すに、時勢・時節というものを知らなかったのだ――

 

そこまで語った後、岡は欧米各国の大勢と日本が鎖国から一変して開国に転じ今日の明治中興に至った経緯を解き聞かせる。すると鄧は顔色を変え、「法虜は道理を弁えない。よって大いに懲らしめないわけにはいかない」と息巻く。そこで岡は儒教原理や歴史を綴った多くの古典を引用しながら鄧の誤りを指摘し、「『中土の士大夫』は、史書の春秋伝が『朝聘會同の義』を重んじていることを理解していない」と続けた。

 

「朝聘會同の義」は、今風に「萬國の道義」を弁える友好諸国との同盟と集団防衛の確立と言い換えることもできそうだ。君主に能力も求心力もないくせに徒に尊大に構え、まともな外交的振る舞いもせず、周辺諸侯と同盟せず、孤立し共同防衛を果たさずにいたとするなら、一朝有事の際には誰からも支援の手を得られずに国は滅びてしまう。亡国の運命を避けるためにも、「朝聘會同の義(ただしいがいこう)」が絶対に必要なのだ。

 

岡の論駁に鄧は窮し、苦悶の表情を浮かべる。かくて咽喉から絞り出すように、「『中土』の衰えは極まってしまった。ここで一戦して士気を奮起させなければ、どうにもならない。現状を考えれば、外国の侵略を防ぐだけではなくて、内憂を除くこともでもある」と。そこで岡が応える。

 

――防備を固め、死しても退却しない。これは固より君主たる者が社稷(くにのこんぽん)に命を捧げるということだ。既にフランスは戦端を開き、貴国の『十八省(ぜんど)』は陥落寸前だ。大義を掲げ断固として挫けず、精鋭の兵士を弾丸が雨霰と降り注ぐ壮絶な環境で鍛えあげ、戦というものの本質を掴み、理非曲直を弁別し、『名義』を押し立てて和議交渉に臨めば、それこそが東洋各国のために『氣を吐く』というものだ――

 

ここまで聞くや、苦汁に満ちていた鄧の顔が和む。得心した、ということか。《QED》