【知道中国 1292回】                       一五・九・十

――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡33)

岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 

翌日から、馬車による北京探索がはじまる。

 

さすがに皇都だ。道路は広々と四通八達している。だが、波を打ったようにデコボコだ。庶民の住む外城地区は人口が稠密で道路の補修は望み薄。雨が降ったら道路は泥濘状態。

 

17日、洋書の翻訳を進める同文館に、法律学を柱に学問全般に精通した「米國牧師」を尋ねる。58歳で在中生活は25年。この時期、アメリカから多くの宣教師が中国に送り込まれた。彼らは「立ち遅れた中国を救わねばならない」という“崇高な人道主義”の持ち主であり、米中相互認識、殊にアメリカ人の対中認識に多大な影響を与えたといえる。

 

南北戦争(1861年~65年)が終わるや、アメリカは海外での領土争奪を躊躇うことなく、中国へも食指を動かしはじめる。その集大成ともいえる政策が、1899年にジョン・ヘイが掲げた門戸開放政策だ。

 

香港を領有し長江流域に独占的権益を持つイギリス、日清戦争で勝利した日本、その勝利に干渉し利権を獲得したフランス、ドイツ、フランスなど先行する列強諸国に対し、後発アメリカは中国への門戸は平等に開かれていなければならないと宣言することで、先発諸国を牽制する。門戸開放という語感は、中国と中国人に対しアメリカの対中国政策は他国とは違って決して侵略的ではなく、抑制的・理想的で保護的な色合いを持っていることを印象づける働きを持ったようだ。

 

日中戦争から敗戦までの間、蔣介石の参謀として国民党軍の指揮を執ったスティルウェル将軍の行動を軸にして、アメリカの対中政策失敗への変遷を追ったバーバラ・W・タックマンは19世紀後半における在中アメリカ人宣教師の働きを次のように綴っている。岡が北京で会ったアメリカ人宣教師の“使命”を考えるうえから興味深いと思うので、些か長いが以下に引用しておく。

 

「この時期(19世紀後半)のアメリカの中国浸透はビジネスと福音の二股かけて行われていた。中国のすべての家庭にランプの灯油を供給しているスタンダード石油の代理店はもっといい客をみつけることができただろうが、宣教師たちは両国の関係にもっと大きな影響を与えることになった。

 

中国の広大さが宣教の衝動を刺激した。もし中国民衆が改宗したら、中国は世界のキリスト教国、しかも英語を話す未来の国になるとの希望を与えたのである。宣教師たちは、中国人が自分たちにふさわしいと考える社会的・倫理的構造を無視し、個人を神聖視し、民主的原則が支配的な考え方に――そういった考えが中国の生活様式に適合するかどうかにかかわらず――変わるように求めた。十九世紀の中国の苦悶を実地に見ている宣教師が、これを証拠に、中国は自らを治めることはできない。これを解決するためには外国の助けが必要と考えたのも無理はない。〔中略〕全米の信徒会が、帰国した宣教師が幻灯も使って中国民衆の優れた素質と将来のキリスト教徒の膨大な予備軍について説明するのを聞いた。アメリカの門戸開放政策によって中国の領土保全が保たれたという一般の印象と、宣教師の宣伝とから、被保護者としての中国のイメージを、さらにそれに伴う、慈善の対象に対する義務感のようなものが生じた」(『失敗したアメリカの中国政策 ビルマ戦線のスティルウェル将軍』朝日新聞社 1996年/48~49頁)

 

キリスト教宣教師を介してアメリカ人の間に植え付けられた中国人に対する印象が、その後にアメリカが対中政策を形成するうえで大きな影響を与えたことは、いずれ解明しなければならないだろう。

 

さて「米國牧師」が中国で4半世紀も暮らす目的は・・・やはり宣教は侵略です。《QED》